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私が悪いか、あなたが正しいか?

読書がダラけているので、繋ぎに、英語ネタ、カルチャー問題。

仕事の話しは、あ!間違えた。だの、間違えてない??だのということは、よくある話しで、それは海外との英語メールでも同じ。
自分が正しいとはほぼ思うのだが、そこは気を使い、

If I am wrong, let me know!

なんて遠慮がちに、アンタ違うでしょ!と云ってみる。すると、案の定ヤツが間違えていた。だが、ヤツはこう切り返してくる。

Yes, you are RIGHT!!

そこには、”ボク、間違えちゃった・・ ごめん” はなく、私が持ち上げられて終わり。このwrong と right の切り替えしは結構多くて、私はその度に、あ~~それでいいんでよね、と思うことにしている。

間違えたのは、あなたで、私が正しかったんでしょ!という白黒決着より、ごめんね、と謝られるより、アンタが正しい!と云われる方が好きなままでいようなあ、といつも思うのだ。

砂の都

Marcel Brion は、アイルランド系の父と南仏に先祖を持つ母の間にマルセイユで生れている。美術評論家、考古学者、伝記作家、歴史家、小説家と多彩な人だったらしい。両親の血が混じり合った先にあったのは、砂の都、それは、アフリカのサハラではなく、シルクロードが貫く中央アジアの砂の都の物語になった。

4896421868砂の都
マルセル ブリヨン Marcel Brion
未知谷 2007-04-01

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下記は出版元、未知谷のサイトから;
幻想は絶えず自身を養い続け、それ自体の織り出す夢によって疲れを知らずに増殖し続ける――
マニ教遺跡があるらしいとの噂に中央アジアのシルクロードを訪れた考古学者が一人、突然襲う砂嵐の中、13世紀と思われるオアシス都市にワープする……
幼い頃の思い出を魂の片隅に留める者には、星辰と共に言いようもなく懐かしい夢物語であり、1959年の初版以来、フランスでは現在も文庫版で久しまれる幻想物語。SF小説と分類される場合もある作品。


最近、どうものめり込んで本を読めない私が悪いのかと思ったが、ドラマティックな展開もなく、淡々と硬質で美しい文章で構成されるこの本は、ヨシフ・ブロツキーの「Watermark」みたいに、読んでいるのか思索しているのか自分でもわからなくなるような本なんだろうと思う。エキゾチックな物語と云ってしまうと、少し違う。今までシルクロードも含め、中央アジアの砂漠のことなど、想像もしたことがなかったが、それはタイムワープしようがしなかろうが、時計というより、砂が刻む時だけが流れる世界で、目から鱗が落ちる思いだった。 この本、じわじわと馴染んでくる。

砂と星。これがこの本のすべて。ワープなどと云う言葉を使うと、突然時空を飛び越えたような印象だが、そこにはSF的な要素は全くなく、ただ砂のように時がさらさらと流れただけだ。考古学者は砂嵐を避けるため、数日間も洞窟に閉じこもる羽目になる。嵐は数世紀にわたって積もり積もった砂を押し流し、そこに古代の都市が現れ、そこは13世紀の砂漠のオアシス都市だった。考古学者は遺跡を巡るわけでもなく、発掘調査をするわけでもなく、その古代都市で暮らす。バザールに出かけ、絨毯や装飾品売りと話し、そして美しい娘と結婚し、子供までもうける。語り部や魔術師のような人たちも登場する。しかし、それらはどこまで行っても淡々とした日常の暮らしだ。神秘的であり幻想的であるが、考古学的・美術的評論の欠片もない。

やがてオアシスはモンゴル軍の攻撃を受け、そして砂嵐に襲われ、砂漠の中に人建物も町も埋もれる。そして考古学者は目覚める。確かに夢ではあったのだろう。だが、彼の手には古代都市のバザールで手に入れた指輪がしっかりと残っている。

更にじわじわと好くなってきた。

ソラリス

なんでも、NHKの『100分で名著』で昨年で、翻訳者、沼野充義氏が自ら登場し、自ら『ソラリス』を語ったらしい。番組は知っていたが、たまたま見ていたことがあるくらいの番組。このハヤカワ文庫は、沼野充義氏による初のポーランド語原典からの完全翻訳版。まだソ連が存在していた頃、タルコフスキー監督が作った映画『惑星ソラリス』の方が有名(いや?、この映画自体もマニア推奨映画だから、一般的ではないな)だと思うが、私もそっち派。『惑星ソラリス』はテレビで見た記憶があるが、記憶しかない。映画を絶賛していた友人がいたが、つまらなかった印象はない。ないが、不思議な映像だったことはぼんやりと覚えている。なんでも、タルコフスキー監督とレムは映画の製作をめぐり、ケンカをしたそうな。どっちがよいということより、読んでみればなるほど、これはSFカテゴリーに分類されるのだろうが、私にとってはもっと超越したものだった。どう解釈して、何にフォーカスするか、映像と文字という違いで、表現が異なるのは至極当然かもしれない(と、読了後は思う)。

4150120005ソラリス (ハヤカワ文庫SF)
スタニスワフ・レム 岩郷重力
早川書房 2015-04-08

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惑星ソラリス―この静謐なる星は意思を持った海に表面を覆われていた。惑星の謎の解明のため、ステーションに派遣された心理学者ケルヴィンは変わり果てた研究員たちを目にする。彼らにいったい何が?ケルヴィンもまたソラリスの海がもたらす現象に囚われていく…。人間以外の理性との接触は可能か?―知の巨人が世界に問いかけたSF史上に残る名作。レム研究の第一人者によるポーランド語原典からの完全翻訳版。

レムの小説を読むのは初めてではないが、読む前から彼の小説は難解だと決めつけていた。が、難解さを凌駕する面白さだった。面白いは正確に云えば、”怖さ”。止められない怖さ。ケルヴィンが最初にソラリスにステーションに着陸した時の異常さ、そして変わり果て、正気を失ったような研究員たち、何が起きても冷静でいろと云われ、一体何が起きたのかわからずに、ステーション内を探索するケルヴィン、そしてそこで自殺した昔の恋人が現れる。怖い。。。が上手い。

人間の記憶を読み取り、意思を持ったソラリスの海は、人間という形態の物体を作り出し、その記憶の主に送り込む。原形質を素材としてさまざまな形態のモノを創造するソラリスの海。過去何年にも渡って、人間はその謎の海を解明しようと試み、いくつもの観察と実験が行われ、いくつもの仮設が立てられた。それはソラリス学と呼ばれる1つの分野として存在するが、人間はいまだにその海の意思を解明できないし、意思を持つ海とコンタクトをとることができない。

ケルヴィンは、ハリーを自殺に追い込んだという負い目を持つ。再び目の前に現れた触れたくない過去から逃れようと、彼はハリーを宇宙船で飛ばしてしまう。が、海はまたハリーを創り出し、ケルヴィンの元に送り込む。そして徐々にその虚像のハリーを愛し始めるケルヴィンの心の葛藤。そんなロマンス(?)も含めて展開するSFを超えたSFだ。単なる創造物、いうなれば、ロボットであるハリーは、ケルヴィンと関わることにより、自意識が芽生えてくる。そしてケルヴィンも、死んだハリーではなく、眼前にいるハリーを愛し始める。自らの正体を察し始めたハリーはケルヴィンのために自殺しようとさえする。

本書で難解と云われるのは、数十ページにわたるソラリス学の章だろう。生物学、物理学、数学、果ては哲学、神学に渡る考察の果て、人間は未だに海とコンタクトすることができない。従来の異星ものでは、人間が勝つか、異星人が勝つか、共存の道を選ぶかしかなかった。そこにいる異星人は、「人間形態主義」と呼ばれる、どこまで行っても人間の延長にある異星人であり、ソラリスの海のようにあまりにも異質な存在の前で、人間以外のものに人間の特徴を見出して理解しようとする姿勢は全く歯が立たない。自分たちの世界の常識の中ですべてを理解することは不可能だが、人は往々にしてそうだ。宇宙へ行かずとも、地球の中に生きる人間以外の生物に対しても人間形態主義で理解し、そして人間同士でさえ、異なるものは排除することで生き延びようとする。

ニュートリノまで登場させ、科学の力でコンタクトを試み続ける惑星の科学者たちだが、ケルヴィンが最後に取った行動は、平たく云えば直接自分の足で、敵地に乗り込む作戦。海が人類との意思疎通を望んでいて、方法を試行錯誤するということ自体が、そもそも「人間形態主義」なのかもしれない。不完全な神、出来損ないの神もいる。そして海が何なのかは明らかにならないまま、ケルヴィンは海に向かうところで終了。

面白いけど寝てしまう映画『惑星ソラリス』は、もう一度見なくてもいい、それならもう一度この本を読み返した方が、きっと数倍面白い。

テレビが壊れて思ったこと

クリスマスの頃、家の(自分のアパートの)テレビが壊れた。電源が入らない。ネット調査の結果、これはもう完全に故障だとわかった。15年近く使っていたから、まあ、それほどショックでもなかった。

年末年始でなくとも、仕事と介護で毎日が終わってしまう私は、年末年始はさらに忙しい。会社に行っていない方が、案外忙しかったりする。私はテレビっ子でもないけれど、ポリシーを持ってテレビなし生活を送るようなストイックな生活をするつもりもない。仕方ないから新しく買おうとは思ったが、電気屋に行く時間はどうにかなるが、配達される時間にアパートに居ることがまず不可能(お蔭さまで、ネットショッピングが激減した)。ようやく受け取れる目途がつき、成人の日の祝日1月8日に新しいテレビが届いた。

2週間テレビがない生活を送っていた、、、と云いながら、実家にはあるわけで、実家にいる時間が長い私は、そこでは半分見ながら、半分うとうとしながら、テレビは見ていた。でも自分の家に帰るとない。年末年始テレビ界の書き入れ時に私はシーンと静まりかえった部屋で過ごした。壊れてしまったテレビは私にとって最初のBS放送が見られるテレビだったこともあり、それを機会に私はほとんど地上波を見なくなった。NHKBSプレミアムがついていることが多いが、見ていないことも多い。お笑い、連ドラ、バラエティの類からはすっかり足を洗い、うるさくない番組がついている(が、見ていない)。だからテレビが壊れ、それが年末年始ど真ん中にあたってもあまりショックでもなかった。ネットで”テレビのない生活”を検索したら、テレビがないことを熱く語る人々が多くて驚いた。テレビを持たない生活ってそんなに特殊なのか??

最初は静かだなと思ったが、1-2日で慣れる。そもそもテレビを見ていないので、空いた時間を有効活用するとか、そういう建設的方向にも向かわない。暇な時間がないし、ほとんど何も変わらない2週間だった。あまりにも変わらなかったので、びっくりしたくらいだ。しかも1月8日に新しいテレビが届いたが、ちょっと大きくしただけで、さほど見た目が変わったわけでもなく、ウン万円の大きな買い物をしたというのに、何の感慨もなく、それが一番のショックだった。

さて新しいテレビが壊れる頃、私はもう老人の域になっているので、テレビくらい見て、刺激を与えた方がよいだろうから、結局私はテレビのないストイックな暮らしを一生送らないのだろうと思う。私の世代は生まれた時には辛うじてテレビがあった。記憶にある最初のテレビは、こんな足のついた白黒。
TV1.jpg 
それから”家具調”と呼ばれるカラーテレビ。テレビがまだエラかった時代。
TV2.png
この先はもうどんな変遷をたどったか覚えていない。テレビくらい持って、テレビくらい見るよ、、、テレビは”くらい”と云われるほど、いつのまにか普通の家電になっていた。

一汁一菜でよいという提案

恥ずかしながら、2018年最初の読んだ本がこれ。

4766129547一汁一菜でよいという提案
土井 善晴
グラフィック社 2016-10-07

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恥ずかしいから言い訳する。
この正月もせっせとおせち料理を作った。今年の年末に自ら参考にするので、記録を残しておこう。
osechi2018 さて、今年は手を抜くことにした。去年はお重が2つあったが、ことしは1つ。但し、これは私と父が二人で食べていたバージョン。これに妹の子供たちが来るときだけは、肉モノをど~~んとプラスした。別々に煮ていたお煮しめは、筑前煮として一品になり、硬くて味が染み込むのに時間がかかる黒豆は白い花豆に替わった。でもそれ以外はひとしきり作った。私たちは1/3まで朝はお雑煮を食べる(買った餅も消化せねばならんし)が、今お節を作る人が少ないどころか、食べる人がそもそも少ない。飽食の時代にお節は人気ないのもわかる。
そして私はふと思った。”何で私は作っているんだろう??” 正直云えば、認知症の進んだ父だってもうお節でも何でも食事ならいいだろうし、姪っ子たちもお雑煮にはとんと興味はなく、肉や海老の御馳走があればいい。何となく”お正月らしい”イベント感を楽しむ年頃も過ぎてしまったようだし。

ということで、もやもやしながら本屋さんでこれを買ってしまった次第。料理は好きなので、本屋さんで外国語文学の棚に寄った後は、料理本のコーナーも覗く。でもネットレシピも充実している昨今、ほとんどレシピ本を買うことがなくなった。でも買わなくなった理由はそんな実践的なことではなく、昨今のレシピ本が私にとってはつまらないから。トレンドは、時短とインスタ映え。簡単で美味しいものは大切だし、手をかけるばかりが料理でもない。でもな、何だかつまらない。

一汁一菜でよいという提案は、ちょっと誤解を招くタイトルだ。これも何のことはない、見た目は昨今の時短料理の延長にある。でもそれはあくまで、販売戦略の問題で、土井先生が云いたいのは、もっと”食べる”ことの本質的な意味なんだろうな。一汁一菜でいいんだ!と云っているわけでなく、一汁一菜でもいいんだよ!と云っている。これはレシピ本ではなく、土井哲学の本と云った方がいい。でも土井先生、育ち盛りの子供らを抱えて一汁一菜の夕飯を出したら、きっとブーイングが起きますよ(笑)。もちろん毎日ではないにせよ、一汁一菜を手抜き料理ではないと思わせるのは、かえって大変じゃないかと、心配している私。ちょっと和食礼讃過ぎやしませんか(笑)、と云いたいところだが、総論では同意する。

毎日レシピを考えるのは大変だと世のお母さん方はいうそうだ。そうだよね、私もそうだった。安い旬ものを適当に買って、あるものから献立をえい!とひねり出すことができるようになるまでには、時間がかかった。そのえい!とひねり出すということと、一汁一菜でいいんだよ、というのは、根っこは同じ気がする。 正確な言葉は忘れたが、ステーキなどを喰って旨い!という旨さは、直接的でダイレクトな上手さ、和食の旨さは(美味さと書きたい!)は身体に染みていく美味さ。ハレの日に食べる御馳走と、ケ(褻)の日に食べる普段の食事は別物で、昔はこのハレとケの区別が日常の中にあったが、現代では薄れてきている。でもケの美味さというものが、そもそも家庭の味なんだと。。。

人生ここまで生きてきた間にそれこそどれだけのものを食べたのだろうと思うが、ようやく今になってそれはなるほどと思える。でも思えるようになるには、時間もかかる、歳もとれねばならぬ。ただね、ハレの料理もケの料理も、本質的なことがあったうえでの手抜きをしたいと思う私。地元の安くて美味しくて安全な食材を食べれることは幸せだけれども、それは簡単な場合とそうでない場合がある。そして本物は高くて手が出せず、ついついモドキを買って、段々モドキが一般化してしまう食材もある。お節を作るときは、ちゃんと昆布と鰹節で出汁をとるが、普段はインスタント顆粒出汁で済ませていた。今回、余った出汁で鍋や味噌汁と作ったら、味が違って驚いた。今更ながら驚き、ちょっとばかりショックだった。週末に1週間分の出汁をとって、冷蔵庫に入れておく。これが私の今年の目標。そしてなぜお節を作るのか?という疑問への答えだが、要は作りたいんだろうなあ、私。普段の料理で手をかけきれない憂さを晴らしたいのじゃないかと、そんな気がする。

夢十夜

折角なので、しかも青空文庫はタダなので、もう一つかる~~く漱石を読んでみた。
実は年末に読んでいたが、そのままほかっておいたら、ぼーっとした印象しか今となっては残っていない。

B009IXLX1A夢十夜
夏目 漱石
2012-09-27

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夢のオムニバス。夢のオムニバスといえば、黒澤明監督の『夢』を思い出し、さらにはタブッキの『夢の中の夢』を思い出した。我が最強のタブッキ様には敵わないが、漱石には漱石の夢物語があるのだね。

「こんな夢を見た」で始まる10篇。場所や時間を超越し、幻想的で美しい話しもあるが、総じて怖い話しが多い。そして大概話しの中に死が含まれている。これもまた「草枕」同様、暗い漱石の一篇だ。神経症漱石の脳みその中なこんな妄想が広がっていたのだな。漱石はきっと深読みして、胡散臭く勘ぐりながら読むのも楽しそうなので、再読するとよさそうな本だ。

う~~ん、短いけど既に忘れかけてしまっているので、今回はこれまで。

草枕

何故、夏目漱石なんて読んだのだろう?と自分に今更聴いてみたが、よくわからない。
漱石は既に版権が切れているので、青空文庫でいくらでも読める。もちろんハードコピーの本を探しても、実に様々な本があるわけだが、この青空文庫のバージョンは新字新仮名といいながら、高校時代の教科書のように、まあ、難しい漢字が沢山ある。時代というよりも、これは漱石のペダンティック思考のせいか?

B009IXKOFQ草枕
夏目 漱石
2012-09-27

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出だしは有名なこれである。
智ちに働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
多分、高校生の頃読んでいる。人並みに漱石の本は10代で何冊か読んでいる。「こころ」なんて何を思ったか、中学生で読んで衝撃を受けた(三角関係の痴情のもつれは中学生には激震だな)。草枕には好印象だけが残っている。但し、この出だししか覚えておらず、ぼんやりとエッセーもどきのとりとめのない随筆だと思っていたら、一応粗筋があって、しかもまたちょっと意味深な不倫モドキもあって、へえ~~と驚いた。人の記憶というのは本当にいい加減なものだ。

草枕とは、そもそも
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
の草枕。画工である主人公が俗世を離れて鄙びた田舎に旅をするのだが、画工といいながら、画だけでなく、詩(漢詩も)も嗜んでは、空を見上げ森に分け入り、思索をするのだが、どうも窮屈な俗世がよほど嫌だと思われる。時代はどうも日露戦争の頃らしく、明治の御代、欧米列強の追いつけ追い越せの西洋化まっしぐらの時代だ。イギリス留学を経験している漱石だが、猛烈な神経衰弱に陥った漱石は、早々に日本に帰国した。文豪と云われ、日本を代表する大御所作家のひとりである漱石、帝大を出て、英国留学まで果たした彼は、子供の私には、エリート中のエリートだったが、そうでもないのだな。つまりどうも彼は、西洋かぶれとは正反対の立場におり、「草枕」の中でも、西洋vs.日本論はしばしば思索されている。が、それでも留学派。西洋の芸術・文化・精神はひとしきり学んだと思われ、一方的な欧米批判ではないようだ。愛や自由や正義を唄う西洋の詩は、いくら詩になったとはいえ、世俗にまみれて金勘定をしているようなもので、東洋のそれはすべてを解脱した果てにある幽庵の世界らしい。

Wikiによると、「草枕」の英語版のタイトルは、『The Three-Cornered World』というらしい。要は常識という一角を排除し、三角の世界こそが、芸術のあるべき場所だと云いたいらしい。

昨年だったか、『こころ』が注目を浴び、漱石ブームが起きていたが、この「草枕」から滲んでくるのは、ちょっと陰湿で暗い漱石の心持だ。わかってみれば、常に葛藤と苦悩を抱えた精神と向きあうのが、彼の人生だったのかも知れない。知性だけがエリートなだけに、そのギャップは何ともアンバランスに見える。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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