Latest Entries

ダヴィッド・ゴルデル

「クリロフ事件」
「秋の雪」
ときて、イレーヌ・ネミロフスキーの三冊目を読んでみた。これが26歳の時に書いた処女作だという。持ち込まれた出版社も、この激しい小説の著者がまず女性であること、そして26歳という若さに2度驚いたという。

4896424387ダヴィッド・ゴルデル
イレーヌ ネミロフスキー Ir`ene N´emirovsky
未知谷 2014-04

by G-Tools

ジュリアン・デュヴィヴィエのトーキー第一作として映画化されたというが、なるほど読んでいて映像が浮かびやすい。3冊読んだが、彼女の作品は確かにどれも映像が浮かぶ。

ユダヤ人の叩き上げの実業家、ダヴィッド・ゴルデルの晩年を描いたこの本は、「ユダヤ人が嫌いなユダヤ人作家」によって書かれたと、親ユダヤから非難され、反ユダヤからは恰好のネタにされた。貧しいユダヤ人の移民が来る者すべてを叩き潰して成り上がり、周りは常に敵だらけ、妻も娘も金の無心しかせず家庭は崩壊、そして今や狭心症の心臓発作で自らの人生の終わりが忍び寄ってきた。出だしは、同じくユダヤ人で共同経営者だったマルキュスが、ダヴィッドの援助拒否に合い、自殺を遂げるシーンから始まる。「ばかめ破産した位で死ぬのか、何故やり直さないんだ」と云い放つダヴィッド。

出だしからこれだったので、少し怯むのだが、すぐに彼がただの強欲ジジイでもないことがわかる。彼は金を貯めることに興味があるわけではなく、儲けた金は次の投資に注ぎこむギャンブラーで、だから巨万の富を持っているように見えて、同じくらい負債も抱えている。ビジネスのことなど何も知らず興味もない妻と娘は、ただただひたすら彼から金を引き出させ、宝石や放蕩に注ぎこむ。彼と同じ出自で、貧しいユダヤの卑しい娘だった妻は、狭心症で倒れた夫に、今死んでならない、すべての後始末をつけてから死ねと、彼を責める。そして溺愛する娘は、お前の子ではないと云い放つ。一方娘は、無一文のロシア亡命貴族とスペイン旅行に行くために車が欲しいと金を病床の父にせがんだり、遊蕩三昧。出てくる人が皆、デフォルメされ過ぎている感があるが、そのおかげでドライブ感が増していることも事実だな。

自分の娘ではないと云われたその娘のために、最期の賭けをしに自分の故郷ソ連のテイスクに向かう。死に瀕している状態でも彼の強い意志と意識は生きている。だが契約締結が終了し、帰途につく船の中でついに力尽きて果てる。最期の勝負は己のプライドだったのか?娘への愛だったのか?死に際に彼の傍らに居たのは、テイスクを逃げ出しパリに向かおうとしていた若者だった。かつての自分と同じその若者に、自分の死を伝えて欲しい相手の名と住まいを告げ、持ち金はすべてやると云って、息を引き取る。でもきっと若者は、金だけとって伝言は届かないのだろうなあ。

確かにあまりにも寂しい最期だ。だが、自分の才覚だけ信じ、何があっても起き上がるそのエネルギーは、ユダヤ人嫌いには決して描けなかったと思う。故郷を離れざるを得なかったネミロフスキーだからこその愛情がそこにはありはしないか(少々複雑な愛情だが)。読み終えて思うのは、彼女の作品は読みやすいし、一気読みタイプで気持ちがいい。が・・・・私にはちょっとドラマチックすぎるかあな。抑えて抑えて・・・が好きなタイプには、やり過ぎ感が残る(あくまで、私には・・・)

タブッキをめぐる九つの断章

こんな本がでていて、驚いた。

490798622Xタブッキをめぐる九つの断章 (境界の文学)
和田 忠彦
共和国 2016-12-23

by G-Tools

須賀敦子さんの後を継いで、最近では和田忠彦氏がタブッキの本を翻訳してくれている(感謝、感謝)。タブッキがこの世を去ってから早5年。この本は、新聞・雑誌、展覧会カタログに発表されたエッセイや、翻訳された本のあとがきをまとめたものだから、たぶんほとんど既読なのかもしれないが、なんせ、タブッキの本は面白くて好きなくせに、そのことだけは覚えていて、中身はキレイに忘れていくから、初めて読んだ気になってしまった。ただ、タブッキと和田氏の対談というものがあって、これはおそらく読んでいない。まるでタブッキが生き返ってきたような錯覚にとらわれ、なんだかちょっと嬉しくなった。

タブッキのミニマリストぶりは、どの本を読んでも??が飛び交うほどで、文字に描かれていないことを読んで感じるには、1度や2度読んだくらいじゃダメだろうから、再読をすべきなんだろうけど、相変わらず出来ていない。タブッキがそうなのはよいとして、和田氏もまるでタブッキが乗り移ったような文章をここでは披露してくれている。禅問答のような会話をタブッキと出来るだけで、私なぞはもう和田氏を尊敬してしまった。

本を書いて出版する以上、人に読んでもらうことを想定しているのだろうが、この本については、和田氏が自分の為に書いたとしか私には思えない。死してなお自らの中に生きる最愛なるタブッキへのオマージュとでもいうか・・・そして、私のようなファンもまた、こうやってタブッキのことを時折思い出し、感慨に浸るわけだ。そして和田氏がいる限り、まだ日本に紹介されていないタブッキの作品が出版されることを期待してもよいのだと、嬉しくなった。

そんな再読もしないくせに、ファンを名乗る私がしっかり覚えていたのは、この一文。
「あの島々がまだあるのかどうかもわかりませんが、おそらくあるのでしょう。地図を眺めていると、よく見かけますから。」 
『ポルト・ピムの女』 邦題は「島とクジラと女をめぐる断片」 より。Tabucchiはこの本を書く際にアソーレス諸島を訪れて以来、その後一度も再訪しなかった。私が最初に出会ったタブッキがこの本だ。いつかこの本を抱えてアソーレス諸島を訪ねることができるだろうか?

蕗の葉っぱの話し

季節ごとに待ちわびる食材というものがあるが、春の筍と蕗は私にとっての二大巨頭である。以前にもこの筍と蕗ネタで一度記事を書いているが、今日の話しは、蕗の葉っぱの話し。。。

蕗の葉っぱは実に地味だ。茎の部分を食べる人がほとんどであろうと思う。実際に、農協の直売所でさえ、葉っぱが切り落とされて売っている蕗は多い。かくいう私も、葉っぱは苦手で、実家の庭で収穫できていた頃は、葉っぱは少しだけ残して、捨てていたりした。その頃は、茎と葉っぱを同時に一つの鍋で煮ていたわけだが、どうも葉っぱに手が伸びない。で、数年前に気づいたのだな、微妙に味付けを変えるという技に・・・

それまで蕗を煮るときには、酒と醤油のみ。味醂、砂糖などの甘味はないものが好きだった。が、葉っぱというのは、茎以上に苦みがあり、こちらはちょっと甘味を加えて、細かく刻んで佃煮風にしてみた。このちょっとの甘味が劇的な変化を遂げたのだった。本当にちょっとのことなのだが、葉っぱは葉っぱだけ煮ると美味いのだった。蕗好きの云う事なので、欲目があるのは確かだが、でも私にとっては、大きな驚きだった。それ以降、面倒ではあるが、茎と葉っぱは少し味付けを変えて、別々に煮る。そして、とうとう今年に至っては、何だか葉っぱの方が美味しいと思うほどまでになってしまった。

さて、こうなってしまうと問題は、巷では葉っぱが落とされて売っていることが多いということである。葉っぱ付の蕗は少数派も少数派で、2束辛うじて残っているとか、全くないことだってある。開店時刻を狙って一番葉っぱを切り落としそうもない農協直売所にダッシュする、もしくは、ほったらかしの他人さまの庭の蕗をもらってくるしかない。昔は実家の庭からとっていたが、めっきり蕗が出なくなった今では、悔しいが買っている。だから蕗を、伸びて伸びて困る雑草くらいにしか扱っていない他人さまの庭が恨めしいのである。

と、ネットでこんなものまで発見してしまった。蕗の葉を塩漬けにして、おにぎりに巻いたものだ。魅力的過ぎる。美味いに決まっている。週末再び葉っぱ探しをしなくては。。。
蕗の葉のおにぎり

骸骨考

以前に中欧の墓巡りというものに惹かれ読んだ「身体巡礼~ドイツ・オーストリア・チェコ」だったが、イタリア・ポルトガル・フランス編が準備中だということをその後すっかり忘れていた。最近雑誌「考える人」が休刊になったという記事を読んでいたら、このイタリア・ポルトガル・フランス編を見つけてしまった。なんだ、こっそり出ていたのか・・・ 

今月はのっけから私生活だけで息切れしそうだったので、読書が全く進んでいない。本が読めないというのは物理的に読む時間がないわけでなく、読む気分になれない、無理して読んでも目が上滑りする。間の悪いことに、Kindle for iPhoneでイギリス人の書いた、”あーーまさしくイギリス人”みたいな英語本を読み始めていたが、やっぱり難しい。イギリス人ジョークが理解できない。それでも読んでいるが蝸牛のようなスピードになってしまった。こんな時に養老先生の本なら、気持ちが少し晴れるかもしれないと、2冊平行読みしていたら、当たり前だが、こちらの本は早々に読み終えてしまった。

4104160083骸骨考:イタリア・ポルトガル・フランスを歩く
養老 孟司
新潮社 2016-12-22

by G-Tools

失礼ながら申せば、前回の「身体巡礼~ドイツ・オーストリア・チェコ」でもタイトルと内容のズレとでもいうのか、話しはあっちに飛び、こっちに飛び、そして道草を喰った挙げく、元に戻り、そして随所随所で大好きな虫の話しを挟み・・・という構成が、今回はさらにパワーアップされていて、まあ失礼ながら申せば、無茶苦茶である(笑)。書きなぐっているような様相なんだな(雑と云う意味ではないが、我儘し放題にはなっている)。そもそもこの本は、元々雑誌「考える人」の連載であったらしい。前回は私も真面目に感想を書いていたが、それも何だかなあ。。な気分だ。でも途中はハチャメチャに見えて、最後は案外ちゃんと締めている。そして、今になって気づいたが、読了後なんだがハッピーな気持ちになるんだな。適当、いい加減というのは、ちゃんと適当、いい加減にやると、たぶん快適でハッピーになるのかもしれない。そんな無茶苦茶ぶりだが、ネットで書評や紹介なんか眺めていると、みんなくそ真面目に哲学だの、生きるとは?とか書いているから、笑ってしまう。

さて、旅の目的は変わらず墓と骸骨で、イタリア・フランス・ポルトガルの納骨堂を訪ねている。しかし養老先生に積極的な意思はあまり感じられない。過去に訪問した納骨堂を再び訪れても、「覚えていないなあ」。また異様ともいうべき、整然と並べられた沢山の骸骨に囲まれた部屋にいても「特に云うことはない」。ここで問うのは、『意識』というものである。骸骨だから墓だから直接的に生きること、死ぬことをくそ真面目に延々と論じてはいない。

言葉は意識であるという。現代人の悪癖は「なにごとも理解でき、説明可能」だと思うことで、世の中筋が通らないことなど沢山あるが、筋が通っているように見せる、筋を通し続けることは、やがて実際とのかい離を招く。だが、多くの人は世の中は意識的にコントロールできると信じ、これこそが意識の「最悪の癖」なのだと養老先生は云う。自分の頭の中が混沌としていて、意識を定義できないのだが、情報というものは(言葉や出版等)意識から発している。が、意識中心の意識絶対主義の現代で、意識化出来ない感覚=身体が置いてきぼりになっていている。「情報」とは「時間とともに変化しない」もの。いうなれば固定化された過去で、その情報やら法律やらがどれだけ貧困になっているか、意識化出来ない感覚=身体が貧困になれば、意識も貧困になる。言葉が意識なら、言い訳三昧の世界は貧困の極みだね。

上手く書けないけれど、養老先生の云いたいことはだいたいわかる。身体というもの、五感も含め、人間の基本的なこと、食べること眠ること、体験すること、解明できなくとも存在するもの、そういったことを中心に据えると、可笑しな意識で構築されている世の中が少しましになるのかもしれない。

骸骨考って骸骨論じゃあないのね・・・と生きた人間を見て、死んだ人間を解剖して、その後の骨を眺めた果ての、生物としてどんどん弱っている人間の考察(ということか・・・) 書こうと思っていたことがまだあった気がするが、思い出せない。ああ、そうそう、アメリカは誤爆が多すぎるっていう指摘に、私は一票どころか、100票いれたい。

染みる感覚

父の急な入院で動転した今週。忙しかったり、何かいつもと違うことが起こると、私は食べなくなるタイプで、ヤケ喰いという方向には向かわず、食事を飛ばす。

昨日仕事も休んで、朝飯も食べず実家での洗濯・片づけ、買い物、そして入院先病院へ。それが終了して、当座やるべきことが終わったのが11時頃だった。動転から多少立ち直ったのか、贅沢なランチを食べてやろうと思いついた。病院と家の間に絶品のイタリアンレストランがある。ランチで2-3度行っただけだが、小田原でもこんな美味しいイタリアンがあるのだと感動した。11:30ランチスタートで一番に入店した。パスタセット、前菜は(おそらく)地場野菜のサラダ+パン。生野菜より火の通った野菜の方が断然好きだが、ここのサラダはそもそも野菜が美味い。火曜日からろくに食事をしていなった私にとっては、久しぶりの、そして誰かがきちんと作ってくれたまともな食事だった。

野菜を口にした瞬間、身体全体に染みていくような不思議な感じがした。あまりの空腹で胃に染みるというのとは違う。内側からじわっとくるのとも違う。身体の表面を流れるすべての血管から身体の内側に染み込んでいくような感じというのが、近いと思う。トマトソースのパスタも然り。食事中、時々目を閉じて、その染み込む感じをじっと味わいながら、食べてみた。この感覚はおそらく人生初だろうな。心に染みる料理というものはあると思う(おそらく色々な意味で)。でもこの感覚は心よりは明らかに身体に染みたのだな。。。折角なので、パスタセットにドルチェにコーヒーもつけて、ランチは気持ちよく終了。少し元気も出た。食べるということは、大切なことなんだなあ。

昨日は20度くらいまで気温があがり、開花宣言後ピタッと凍り付いていた桜も物凄い勢いで咲きだした日だった。家と病院の間には、小学校が2校、中学校が1校あり、すべてで入学式をやっていた。校舎の前で親子記念撮影の現場も沢山見た。こんなに気持ちのよい入学式などそうそうあるものではない。よかったよかった。自転車で市内を移動しまくった一日だったが、風も心地よい。天気とか風とか緑とか、そういうことも食べることと同じくらい大事なんだなあ。そういうことに助けられ、少し救われた気持ちになるってことを実感した春の一日。来年の春がやってきて、桜が咲いたら、そういえば去年は・・・と思い出すのだろう。

さっき、気付いたこと

これが好きで好きでたまらない・・・という何かがあれば、人生もうそれだけでOKじゃん、と常々思っていた。
でも、それがある人っておそらく少ない。
食べるものがあるだけで有難いと思えとか、仕事があるだけで有難いと思えとか、それは現代ではそうそう通る説教ではないな。

やりたいことを見つけようとしたら、一生かかっても見つからないかもしれない。でも、さっき気づいた(いやホントさっき)。やりたくない事を徹底的にしない。やりたくないことを排除していった先には何かあるかもしれない。私はこっちから行こうかな?

秋の雪

イレーヌ・ネミロフスキーの二冊目は短篇集。
4896424379秋の雪―イレーヌ・ネミロフスキー短篇集
イレーヌ ネミロフスキー Ir`ene N´emirovsky
未知谷 2014-03

by G-Tools

以下、5篇
『舞踏会』
『秋の雪』
『九月の午餐』
『幸福な岸辺』
『腹心の友』


1929年から1941年までに発表された5篇。彼女の作家としての活動期間はほんの10年足らずだったが、長短篇あわせて、20作を超える作品を残しているから、自らの激動の半生を反映させながら、題材は次から次へとほとばしり出ていたのかも知れない。死後、2004年になって発見された『フランス組曲』を契機として、再評価され、むしろ生前より現代の方が評価が高いのだろう。が、ロシア革命を逃れ、フランスでフランス人になろうとカトリックに改宗してまで帰化しようとしたのに、受け入れられなかった挫折も含め、一体何を思って短い人生を過ごしたのかは、日本語で読めるものはあまりない(フランスでは出版されているらしい)。

個人的な一押しは「秋の雪」。ロシア(ウクライナ?)の地からパリへ逃れた裕福な一家に代々乳母として仕えた女性の話し。狭くて暑くて風通しの悪いアパートで老いてゆく彼女が、故国を思い出し、その寒さを焦がれながら雪を待つシーンが残像に残るよう。

2冊完了して思うのは、人物の心情描写の細かさ、それは物語の中で相反する人物の双方を偏ることなく、客観的に平等に描いている凄さだと思う。が、その心情描写の細かさは、読んでいて時々こちらの神経が痛く、辛くなるくらいで、readabilityが高いが故に止めることもできず、かなり精神的にはやられる。「舞踏会」然り、「腹心の友」然り。痛さには個人差はあるだろうけれど、このreadabilityの高さは、意図せずしてエンタテイメント要素も豊富で、読者に満足感を与えることは間違いないんだろうな。

作家デビューを果たし、評判をとった『ダヴィッド・ゴルデル』と、『フランス組曲』までは、読むべきかしらん、と思いながら、アマゾンを眺めているが、高止まりの古本価格に現在足止めを食っている。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

Calendar

<
>
- - - - - - -
- - - - - 12
3 4 5 6 7 89
10 11 12 13 14 1516
17 18 19 20 21 2223
24 25 26 27 28 2930
- - - - - - -

全記事

フリーエリア

フリーエリア