Latest Entries

クリロフ事件

また未知谷のTwitterに踊らされてしまった。
イレーヌ・ネミロフスキー、Irene Nemirovsky (1903~1942) 旧ロシア帝国、現在のウクライナのキエフ生まれ。10代前半、革命時パリに亡命。42年にアウシュヴィッツ収容所にて死去。彼女の死後60年以上経過してから、遺品の中から発見された未完の大作『フランス組曲』が有名。この本は聞いたことがあった。ところでこの表紙の写真はどこなのだろう?

4896424409クリロフ事件
イレーヌ ネミロフスキー Ir`ene N´emirovsky
未知谷 2014-05

by G-Tools

帝政末期のロシア、革命家でテロリストのレオンMが遺した回想録という設定。レオンの暗殺ターゲットとなったのは、教育相クリロフ。残忍で冷酷な権力者であったクリロフは「シャチ」というあだ名を持つトップクラスの高官である。レオンはシベリアで政治犯の両親の元に生まれ、父の死後スイスへ移住、10歳で母も亡くなり、「革命委員会」の手により育てられた”生まれついての党員”だった。委員会からの指令を受けて、サンクトペテルブルクにあるクリロフの家に身分を隠し、医師として住み込み始める。

幼い頃から革命家組織で生きてきたクリロフは、抽象的な世界「ガラスの檻」で生きてきた。主義や情熱で革命に身をささげたわけではなく、その世界しか知らずに育った。権力欲というものはあるのだが、革命そのものに対しては醒めた目を持っている。クリロフは肝臓癌を患っており、激痛に耐えながら職務を続けている。彼の妻(2番目)は元酒場の歌手をしていたため、皇帝夫妻から嫌悪と侮蔑を受けているにも関わらず、一途に愛し続けている。敬虔で生真面目で不器用、時として臆病な顔をのぞかせるクリロフと接する内に、レオンは「初めて人間というものを見た」と云わしめるほどのシンパシーを感じ始める。しかしそのシンパシーとて、愛憎入り混じる複雑な感情だ。クリロフの冷酷さとどうしようもないほどの人間臭さの両方が無理なく描写されているが、帝政末期ロシアを舞台にした壮大な大河ドラマに仕立てない、というのが、ネミロフスキーのスタイルなのかもしれない。

やがて権力の座から引きずり降ろされたクリロフだが、それでも革命委員会はレオンに暗殺決行を命じた。暗殺中止を叫ぶレオンの声は聞き届けられず、暗殺は決行される。躊躇したレオンに代わり、実際に手を下したのは、彼の同僚だが、彼女がやっていなければ、自分がやっていただけだ。。。

150ページ足らずの短い話しだったし、短いとはいえ、ずっと続く緊張感とストーリーの面白さであっという間に読める(途中でやめたくないタイプの本)。初イレーヌ ネミロフスキーは十分楽しめたし、もう少し読んでみたいと思わせるが、まだ好きも嫌いもよくわからないのが本音。難を云えば、ちょっとキレイにまとまりすぎてる。『フランス組曲』は映画になったが、この『クリロフ事件』も勝手に脳内映像が浮かんでくる本だ。さて、もう一冊仕入れてみたので、次もイレーヌ ネミロフスキー だ。

一千一秒物語

ということで、すかさず稲垣足穂の「一千一秒物語」に行った。新潮文庫だが、私が読んだ版はこれじゃない。
410108601X一千一秒物語 (新潮文庫)
稲垣 足穂
新潮社 1969-12-29

by G-Tools

一千一秒物語 こっちです。

当たり前の話だが、ガイブンばっかり読んでいるとネット検索してもヒットしないものはホントにヒットしなくて、そんなに売れていないのかと心配になるが、日本文学なんて読み切れないほどヒットする。初めて読んだ稲垣足穂だけど、ちょっとググるだけで半生がだいたいわかってくる。ということで知った稲垣足穂の生涯だが、文壇に背を向ける人というのは、たくさんいたのだろうけれど、彼の場合は反骨精神というより、「他人に関心を持つのを恥と心得ている」といい、実際に彼ほど徹底的に確固たる信念を貫いた作家はいないのではないかと思えてくる。でも逸話や発言を書いていると面白くてやめられないので、本作へ。。。

「一千一秒物語」
「黄漠奇聞」
「チョコレット」
「天体嗜好症」
「星を売る店」
「弥勒」
「彼等」
「美のはかなさ」
「A感覚とV感覚」


段々難解になっていく構成。「A感覚とV感覚」というちょっとキワドイ美少年論は楽しめるものの、「彼等」や「美のはかなさ」はついてゆけず、完全に流してしまった。でもそれ以前の「一千一秒物語」から「弥勒」までは、夢中になって読ませていただいた。確かに私好みだ。ガイブンばっかりの私が読んでも、この無国籍、時代を感じさせないボーダーレス感は好みだ。日本的情緒や湿度や人肌の温度がない。鉱物的。久生十蘭を読むと、日本語というものはかくも美しいのかと驚くが、足穂を読むと日本語はかくも無機質になるうるのかと驚く。

何はともあれ、「一千一秒物語」。松岡正剛氏曰く、”ハイパーコント”。稲垣足穂が17歳くらいからちょこちょこと書いていたという、ショートショートの上をいく数行コントだ。そのシュールさ、クールさ、似非ものの月と星と人がドタバタを演じるその世界は、小さな舞台の展開を思い描いてしまう。機械仕掛けの月や星が、予測不能にかっとぶ。すべてが似非の人工物。その短い奇妙な話しに最初は驚くが、これってきっと削って削ってこれ以上は削れないというところまで、削った結果なのかなあ、とそんなことを思わせる。ニヤッと笑ってしまったりすることも多々ある。シュールでクールなくせにチャーミングでもある。きっと何度読み返しても楽しいだろうなあ。深読みなんてしなければ、子供に読み聞かせたっていいぞ。

「黄漠奇聞」は古代の王国の物語。神を恐れぬ、神を超えようとした王の物語。三日月を砂漠の果てまで追いかけていき撃ち落とすと、彼の王国は砂漠の中に跡形もなく消えていた。道徳的な比喩がありそうで、こんな話しって他にもありそうで、でも足穂の世界は何かがどこか違っていた。月は満月ではなく、三日月なのね・・・

「チョコレット」も童話風。チョコレートに入るように誘導された星の精。鉱物のように固くなりどうにも割れなくなったチョコレットを鍛冶屋に持っていき、叩き割ってしまうと、爆発して星の精は宇宙に飛んでいく。これも中編だが、ハイパーコントだ。

稲垣足穂は自分が生涯かけて書くものは『一千一秒物語』の脚注にすぎない、と云ったという。初めて読んだ者にこの意味は全くわからない。わからないが、折角なので『一千一秒物語』から一つだけ。「黒猫のしっぽを切った話」
ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン!と黄色い煙になってしまった 頭の上でキャッ!という声がした 窓をあけると、尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた

ペガーナの神々

「二壜の調味料」を読んで気づいた、ダンセイニといえば、これ!というのが、「ペガーナの神々」らしいので、早速。翻訳はあの荒俣宏さん。ただTVに出ているオジサンではないことは知っていたけれど、この独特のファンタジーに心酔して日本語に作り上げるということは、尋常じゃない。原文がどうであったかは定かではないけれど、ダンセイニの世界を表現することは単なる言葉/翻訳技術の問題ではないと思う。

415020005Xペガーナの神々 (ハヤカワ文庫FT)
ロード ダンセイニ S. H. Sime
早川書房 1979-03-13

by G-Tools

この世が始まる前に〈宿命〉と〈偶然〉が賭けをして、その勝者がマアナ=ユウド=スウシャイに話しかけた――「わしのために神々を創ってもらおう」。こうして創られた神々が、手なぐさみに〈世界〉を創り、人間を創った……。

実は、半分までたどり着いたところでもう一度最初から読み直した。小難しい話しではないのだろうが、ダンセイニの世界に全然ついていけなかった。彼の故郷アイルランドのケルト神話が下敷きになっているらしいが、ケルト神話をググったところで何の役にも立たなかった。キリスト教的世界観と八百万の神を持つ日本の神話を頭から一旦取り外さないとダメだと思いながら、どうにも変な既成概念が邪魔をする。ということで、仕切り直したわけだ。

マアナ=ユウド=スウシャイはヒエラルキーのトップにいることはわかるが、彼(も彼女もないんだろうなあ)は、自らが作り出したスカアルの太鼓の音を背に眠りについてしまう。マアナの眠りは、スカアルの太鼓の音が止まる時まで続く、つまりスカアルの太鼓の音が鳴りやんだとき、終末を迎える。マアナ=ユウド=スウシャイを目覚めさせないよう、声は使わず、手で話をする。この世は(人の世というものは)マアナ=ユウド=スウシャイの一瞬の夢の出来事で、夢から覚めたら世界は終わる。そしてまたサイコロを振るような曖昧さで、世界が始まる。嗚呼、私の想像力を超えている。そもそも初めが、”この世の始まる前”のぼんやりとした薄明りの情景で、そこから曖昧さが始まっているではないか。

マアナ=ユウド=スウシャイがペガーナの小さき神々を作り、どうもそのヒエラルキーの下に地霊たちいて、人間の預言者がいて、地球上に生きる普通の人間がいるらしい。で、マアナ=ユウド=スウシャイに神を作れと云った、《宿命》と《偶然》って何なのだろう?マアナ=ユウド=スウシャイは眠っているので、物語にはほとんど登場しない。ペガーナの小さき神々にしても、人間臭さ(?!)もキャラクターもなく、ぼんやりとしている。ぺガーナの神々、世界をつくり、生や死や時を司り、そして時は常に中心にあり、その前にも後ろにも同じものがある。人の世界にとって永遠とも思われる時間は、神々の世界においては、一瞬の戯れ時間に過ぎない。万物に宿る神をおあしますここ日本の神様は、どうも人間臭いが(七福神を今、頭に思い描いている)、ぺガーナの世界において、人と神の間には絶対的な隔絶がある。そしてマアナ=ユウド=スウシャイと彼がつくった小さき神々たちの間にも絶対的な隔絶がある。人々は神々たちに祈りを捧げるが、常にそれはマアナ=ユウド=スウシャイを除く、神々たちへの祈りだ。

日常の些末なことに気を病んでいるような時、この世界も地球も宇宙も超越した原始の物語は、ふうーと力を抜かせてくれる。ちっぽけな人間でもいいのかも知れないなあと。

稲垣足穂がダンセイニに触発されて「一千一秒物語」を書いたという。そういえばこの本、家にあった。知り合いが「あなたが好きそうな本」だと云って押し付けたが、昔の新潮文庫で、黄ばみもさることながら、字が小さくて敬遠していた。が、こんな繋がりを無駄にしてはいけないな、と思いつつ、その古い古い(でも昭和40年代刊行)の文庫本を手にしてみた。 定価¥160だって。今文庫本といえども、¥1,000位するよなあ、と感慨にふけってみた(それがオチか?)

新作 lemon curd

レモンカードはどうもイギリスの食べ物らしい。かく云う私もイギリスで知ったのだが、ジャムとの違いは、卵やバターを加えてクリームになっているところ。パンにうすーく塗って、軽くトーストして食す(この食べ方以外知らなかった)。日本で買えるのは、多くは輸入品だが、チト高い(1ビン¥1,000位?) どうも簡単に作れるらしいというので、作ってみたら、あれ、案外簡単だった。

lemoncurd2 lemoncurd1

驚きは簡単だったことではなく、その味の方。濃厚さ、レモンの香り、いやはや既製品って何なのよ!と思う位の美味さじゃないか。。。ジャムもそうだが、家庭で手作りするような贅沢さで作ったら、相当にお高いものになることはわかるが、レモンカードの格差はジャムの格差ではないな。

レモンの皮:ガリガリとすりおろす (なので、無農薬レモンを使用)
レモンを絞ったジュース
バター:レモン1個につき50g
全卵:レモン1個につき1個
砂糖:適当(笑)
これで瓶1個分くらいになる。否、瓶1個分にしかならない。そりゃあ、濃厚になるわけだ。栄養?カロリーも高いだろうな。が、美味い、両目を引ん剝くくらい美味い。小田原は柑橘類が取れるので、レモンなんて安く手に入る。無農薬を探すのもそれほど大変じゃない。ちょっと見た目の悪いものをジュース用と云って、大量に売っていたりする土地だからこそのレモンカードだ。

さて、早速トーストにしてみたが、美味すぎてトーストにすると魅力が薄れるような気がする。再びペロッと舐めてみる。これはヨーグルトとかアイスクリーム(100円アイスのような安いアイスがいいかも)と一緒に食べたらよさそうだ。

ということで、10倍希釈の既製品に¥1,000をはたくことは今後もうないと思われる。

深い川

ホセ・マリア アルゲダス は初。ペルーの作家でインディオの言葉、ケチュア語を活かしてインディオの世界を描いた作家だとのこと。

4773893109深い川 (ラテンアメリカ文学選集 8)
ホセ・マリア アルゲダス Jose Maria Arguedas
現代企画室 1993-12

by G-Tools

両親は白人でありながら、早くに母親を亡くしたホセ・マリア アルゲダス は継母や義兄と上手くいかず、使用人のインディオ達の中で暮らし、彼らに囲まれて育った。そして不良の義兄に強姦の現場の見張り役をやらされるなど、継母や義兄との関係はホセ・マリア アルゲダス 少年の精神を痛めつけ、晩年までそのトラウマが残ったということだ。そんな関係に耐えられず家を飛び出した少年はインディオの村で暮らし、13歳で寄宿学校に入学する。彼の生涯については、あとがきで語られているが、それは読んでいるだけで、心が痛くなるような話だった。そしてこの『深い川』を読むと、その人生を抜きにしてこの本は語られれないし、寄宿学校での実際の生活を土台として書かれていることもよくわかる。『深い川』に登場する孤独な少年エルネストは、ホセ・マリア アルゲダス の分身だ。

ラテンアメリカも白人と原住民、富める者と貧しきものの格差を抜きには語れない。いままであまり意識して来なかったが、所謂”ラテンアメリカ文学のブームの中心になったのは、そこそこのインテリでそこそこの中産階級で、だいたい白人で、ヨーロッパ大陸との繋がり、スペイン語で作品を書き、だからこそ世界の中のラテンアメリカを主張できたのかもしれない。その功績は大きいし、それはそれで素晴らしことではある。私が今まで読んできたラテンアメリカ文学は、前衛的で幻想的で、豊かで自由に時や場所を飛び越え、もちろん彼らだって混血文化のラテンアメリカの現実を描いたし、アイデンティティーへの自問もした。でも、そんな今までのラテンアメリカとは、ホセ・マリア アルゲダスは少し違う世界にいるような気がする。

大きなエピソードは、塩を巡る暴動とチフスの蔓延という事件だが、その狭間で、”白痴”と呼ばれている知的障害の少女と寄宿生たちの性的遊戯や、神父とのやりとり、そして大きく占めるのは、エルネスト少年が描くアンディスの風景と、キリスト教世界と対比するように描かれるインディオたちの自然への畏敬だ。これらはリアリティーと呼べるほど、私には実感はないものなのだが、マジックリアリズムと呼んではいけないような物悲しさだけはひしひしと伝わってくる。プリミティブなものの残酷さ。少年が繊細で感受性が豊かなだけに、その危うさは痛いほどだ。

インディオや黒人に対する偏見は、私が想像する以上に強いものがあるはずなので、エルネスト少年すなわちホセ・マリア アルゲダス自身が、白人でありながらインディオに囲まれ、インディオの側に立った人間として生きていくということは、途轍もない偏見と超えることは絶対に不可能な別別の世界で生きるということなんだろう。彼は58歳でピストル自殺をしたという。生涯病んだ精神が回復することはなかった。異文化の狭間からずっと逃れられない人生だったのだろうか?

Rhapsody in Blue

ここ数日、なぜか頭の中を「Rhapsody in Blue」がグルグルと回っている。難しいことはよくわからないが、とにかく好きなのである。で、どこの楽団で誰が指揮しているのかも覚えていないが、CDだって持っている。

1920年代に作曲されたGeorge Gershwinの名作だが、今でこそクラシックのカテゴリーに入るのだろうが、当時はジャズとクラシックを融合させた画期的な1曲だった。素人だから音楽的な説明は全然できないが、今聴いたってRhapsody in Blueは立派に変だ(笑)。ド素人的にいうと;
テンポがコロコロ変わる
何拍子だかよくわかんない
長調だか短調だかよくわかんない
リズムが変調的で、決して行進はできない

George Gershwinという名前を初めて知ったのは、中学か高校の英語の教科書だった(内容の記憶は全くなし)。子供ながらに何だかアメリカ人ぽくない苗字だとは気づいたが、彼はアメリカ在住のロシア系ユダヤ人だった。次に遭遇したのは、Woody Allenの映画、『Manhattan』 だった。日本公開は1980年だったらしいので、高校生の時に見たことになる。ウディ・アレンにダイアン・キートンという黄金コンピに、マリエル・ヘミングウェイや映画に出始めの頃のメリル・ストリープなんかもいた。筋はとんと忘れたが、Rhapsody in BlueをバックにモノクロのNYはマンハッタンの街が全面を彩る(モノクロ映画だけど)。このマンハッタンは鮮烈だった。もっとも社会人になってNYにいったら、東京みたいな街だったけど。

その後CMやドラマで頻繁に使われるようになったRhapsody in Blueだが、きっかけはこの映画だったのかもしれない。偏愛しているので、これが流れるだけでどんなCMでもドラマでも何故かステキに見えるという幻想機能がある。

George Gershwinは早熟の天才でもなんだもなかった。貧しい一家でピアノを触れたのも12-3歳になってからだという。彼のキャリアはポピュラーソング畑から始まっている。そもそもオーケストラの知識も乏しいまま「Rhapsody in Blue」を作ってしまったらしい。

先ほど「Rhapsody in Blue」をググっていたが、私にとってはどうでもいいことばかりがヒットする。使われたCMやドラマ、Youtube、楽譜、プロによる解説だの解釈、CDネット販売サイト、本の感想ってのはあるが、クラシック音楽の感想ってのはないのか・・・Rhapsody in Blueはやっぱりマンハッタンの情景が即座に頭に浮かぶ。それは下から見上げた摩天楼とその狭間の空で、道路から湧き上がるスチーム蒸気に煙り、ビルの谷間を車が駆け抜ける、そこは大都会でありながら、どこか異国情緒が漂い、庶民の日常の匂いがする。が、とにかく下から上へ向かっている、うん、これがすべてだ。

褒めちぎったRhapsody in Blueだが、これがあまりに好きすぎて、George Gershwinの他の曲には実はとんと興味がないのである。

ホーソーン短篇小説集

先日「緋文字」を読んだときに、未読棚にはこんな文庫本があったことを思い出した。緋文字に至るまでのホーソーン歴の方が圧倒的にインパクトが強くて、緋文字で初めて、ホーソーンてそもそも・・・を知ったのだった。で、よくよく気づくと、この短篇集はかなりダブリがあったが、まあ、気にせずあらためてホーソーンに取り組もう(だって、読んだそばから忘れちゃうし)
4003230434ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)
ホーソーン 坂下 昇
岩波書店 1993-07-16

by G-Tools

僕の親戚、メイジャ・モリヌー
ヒギンボザム氏の意外な破局
ヤング・グッドマン・ブラウン
ウェークフィールド
白の老嬢
牧師の黒のベール
石の心の男
デーヴィッド・スワン
ドゥラウンの木像
雪少女
大いなる岩の顔
フェザートップ
アリス・ドーンの訴え


人面の大岩 (バベルの図書館 3)  で読んだものとそこそこだぶっていた。そして意図せずして、再読しない私が、ウェークフィールドだけは、3度目の再読になっていた。 私のせいなのか、翻訳のせいなのか、何だかちょっと味わいが違って感じるなあ。

「緋文字」を読むまでは、ホーソーンのバックグランドにはとんと興味がなく、ちょっと暗くて幻想的なアメリカの古典くらいにしか思っていなかった。でも結構面白く読んでいた。「緋文字」卒になった今、改めてホーソーンを読んだら、彼の生い立ち抜きにして、やっぱりホーソーンは語れないのかもしれないと思えてきた。ボストン近郊セイレムに生まれ育ったホーソーンの先祖は、忌まわしい魔女裁判に関わって(裁く側)いたという歴史から、彼は生涯逃れれることはなかったのだろう。この短篇集は「緋文字」より以前、若かりし頃に書き溜めた短篇だというが、そのセイレム色が嫌というほど、溢れている。そうか、こんなだったのか・・・というのが、新たなる発見になった1冊だった。初期ピューリタニズムには、アメリカ的な”富と勤勉のピューリタニズム”とは程遠い、ユートピアニズムとテロリズムが表裏一体となった闇の歴史だったという。厳格な信条は、異端を許さない排他性があったし、信条に反するものを隠すことで、かえって捻じれた人間性を生むことにもなる。

そう、どの短篇もピューリタニズムが満載だ。でもホーソーンの凄いところは、そこからさらに純粋に物語の面白さがあるってところだ。緋文字が出版されたのが44歳くらいで、それ以前の20年間で100篇もの短篇を書いている。早熟の天才だ。天才ぶりというより、その若さで、この構成でこの不穏な空気の漂う作品を書き上げていったという精神構造の方が興味深い。幻想的で美しいのに、裏には必ず悪意が潜んでいるような感じなんだな。

さて、下はボルヘス編纂の「バベルの図書館 - ナサニエル ホーソーン,」からの引用。
彼が死んだのは1864年春の、ニューハンプシャーの山中でのことである。彼が夢想し、その死によって完成または消滅した物語を想像してみることをわれわれに禁じているものは何もない。だがそれはそれとして、彼の全生涯は、ひとつらなりの夢であった。 
ボルヘスの言葉を理解できるなど、100年早いが、今回この短篇集を開きながら、改めて、「バベルの図書館」の方もパラパラとめくり、そしてボルヘスによる序文を読み直してみた。3回は読んだ、でも、最後のボルヘスの言葉が全然わからない。ホーソーンが夢想していたものって何なのだろう??

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

Calendar

<
>
- - - - - - -
- - 1 2 3 45
6 7 8 9 10 1112
13 14 15 16 17 1819
20 21 22 23 24 2526
27 28 29 30 31 - -

全記事

フリーエリア

フリーエリア