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夏と秋の隙間

家の周りには雑木林やら神社やらがあるので、夏の間は蝉の巣窟になっている。ここに引っ越してきた最初の朝などは、夜明けとともに鳴きだす蝉のせいで起こされた。次の朝も起こされた。3日目で身体に抗体ができたのか、もう起きなくなった。

まだ家の周りでは蝉が鳴いている。でも今朝はこんな雲を見た。いわし雲なのかうろこ雲なのかはわからないけれど、秋の雲だ。自転車小僧の私は、ほぼ毎日お天気アプリをチェックする。雨が降るか降らないかで、行動時間が変わってくるからだ。今朝もお天気アプリを開くと、この晴天で、この日差しで22℃程度だというから、酷暑を今年も乗り切ったのだと実感する。

雲

ベランダを覆うようにかけている日よけシェードをいつ撤去するかは毎年考えるが、不思議と毎年秋のお彼岸の頃に撤去となる。”暑さ寒さも彼岸まで”だな、とこれまた毎年心のなかで思うのだ。科学者がいうように地球は確実に温暖化しているのだろうが、暑さ寒さが今年もお彼岸を境に入れ替わるのであれば、少し安心する。

愛その他の悪霊について

ラテンアメリカ文学は2年半も読んでいなかった。ガルシア・マルケスは?と調べたら、このブログをはじめた2011年3月以降、一件の記事もなし。我ながらちょっと信じがたい。彼の邦訳された作品を調べつつ、本棚をがさ入れしつつ、5冊は読んだはずで、未読本も3冊あるぞ。
百年の孤独
ママ・グランデの葬儀
予告された殺人の記録
コレラの時代の愛
わが悲しき娼婦たちの思い出

これらは全部そんな昔に読んだのか・・・


ラテン文学デビューはおそらく「百年の孤独」だと思う。そして私のラテン文学読みは、ガルシア・マルケスから始まった。まだ訳もわからず本を選んでいた頃で、やっとこさ読んだという記憶は鮮明に残っているが、世界中のそうそうたる作家たちが絶賛する「百年の孤独」の凄さは全く実感できず、記憶にも残らずという、私にとってはトラウマにもなりかねない本になってしまった。読み直してみようじゃないか、ガルシア・マルケス。

おそらくこの本は読みやすいほうなのだと思う。登場人物もそう多いわけでもなく、魔術的な描写も多くなく、起承転結の筋書きもちゃんとある。時代は18世紀のコロンビア、スペイン植民地時代のカルタヘーナという町の物語。12歳になる侯爵のひとり娘シエルバ・マリアが、額に白い斑点のある灰色の犬に咬まれる。やがて彼女は狂乱する。狂犬病なのか、悪魔に憑かれたのか。シエルバ・マリアは両親の放任により奴隷たちのアフリカの風習と野生を身に付けて育っていた。内面もその暮らしぶりも全くもって奴隷たちと変わらないのに、その外見は完璧なまでの白人貴族のそれであった。悪魔憑きの疑いがあるとして修道院に入れられた彼女は、狂信的修道院長と司教らによって悪魔憑きとして隔離される。だが、悪魔祓いの命を受けて、修道院に赴いた神父デラウラ・カエターノは果たしてそうなのかと疑問を持つとともに、次第にシエルバ・マリアの存在が頭から離れなくなっていく。

これはもう明らかに悲しいラブストーリーで、「コレラの時代の愛」や「わが悲しき娼婦たちの思い出」に連なる晩年の作品だが、こういうのを書くから”あの”百年の孤独があろうと、ガルシア・マルケスの人気は息が長いんだろうなと納得する。もちろん単純ななラブストーリーというだけでなく、硬直的な旧大陸のヨーロッパ文化が、新大陸の自由な異文化を殺してしまう物語でもある。教会が君臨する抑圧的な世界の中で窒息死していくシエルバ・マリアや神父デラウラ・カエターノ、その世界に逆らえず自滅していくシエルバ・マリアの両親である侯爵夫妻。ここにでてくる登場人物たちには悲しい顛末しか与えられていない。神父デラウラ・カエターノが、禁断の恋に気づき始め、苦しみながら自問し、神父としてあるまじき幻想を打ち払うため、自分の身体を鞭打つ。

「私たちは、理解できないことをすべて悪霊の仕業と考えがちですが、私たちには理解できない神のみわざなのかもしれない、と考えてみなくてはなりません。」

最後は異端審問にかけられ有罪とされたデラウラ・カエターノを修道院で待ちながら、5回にわたる過酷な悪霊退治を受け、そして第6回目を迎えようという朝、夢の中で死んでいくシエルバ・マリアのシーンで終わる。生まれてから一度も切ったことのなかった長い長い髪を悪魔払いの儀式のため剃りあげられてしまったシエルバ・マリアの死んだ頭骨からは、新しい髪の毛があぶくのように湧き出し伸びていた。・・・・・こんなエンディングをもってくるから、ガルシア・マルケスって人気なんだよ。

今ガルシア・マルケスを新刊本屋で探すと新装版になっているが、私が読んだこれは昔の版で25年くらい前に買ったと思う。いったいどれだけ寝かせておいたんだと呆れるが、200ページとはいえ、定価は1700円。ガルシア・マルケスくらいなら増刷も期待されるが故の価格設定なのかもしれないが、安かったんだなあ、海外文学。。。 ちなみにこの古いシリーズの「百年の孤独」は1900円だ。私が持っているのは、1972年発行で1991年36版。36版って岩波文庫の古典じゃあるまいし、現在単行本でこれだけ版を重ねられる本はそうはない。それだけで「百年の孤独」は凄い。再読(というか、リベンジだな)しようかなあ・・・と、とりあえず本棚から手の届くところに移動させてみた。させてみて、眺めているだけだが・・・・

Blade of Light

前回の「Game of Mirrors」から2年以上ほったらかしだったMontalbanoシリーズ。これは第19作目で、ほぼ最新作をキャッチアップできていたはずだが、今日あらためて調べてみると、英語版でさえ24作目まで並んでいて、元のイタリア語版に至っては、本年発行された27作目が最新作で、TVシリーズも続いており、そのTVシリーズは私より先に進んでいるじゃないか・・・


久しぶりに読んだからか、このシリーズってこんなに楽しかったのか!と驚いた。しかも読みやすいし。内容も変わらぬ安定ぶり。年齢とそれに伴う心身の老化が気になるMontalbanoというのも変わらないが、今回はまるで少年の初恋のように、アートギャラリーの女性に恋をしてしまう。事件のほうは2つ、強盗にあった妻の被害を報告にきたかなり年上の旦那と、町外れの広い農場の使われていない小屋を武器密輸に使用しているらしい疑惑と、その犯人と思われるアルジェリア人の3人組み。事件の顛末は捻りに捻って、あ~~そういうオチなのかと、最後の最後までエピソードがつながらなかった私。

Montalbanoの恋話だが、ちょっとやり過ぎだと非難されそうなくらい、ドキドキと興奮がとまらないMontalbanoだったが、相手の女性もこれまた情熱を恥ずかしげもなく飛び散らせるタイプなので、こういうパターンは破綻するとすぐわかる。もっともどれだけ彼が浮気しようが、Liviaの存在は絶対なので安心して読んでいられる。メインストリームの事件とは別に、仕事でミラノにいった彼女の仕事仲間が実は、美術品の詐欺師であるというエピソードまで入れてくれて、今回はてんこ盛りだった。さて、電話の相手としてしか今回も登場しなかったLiviaだが、体調が悪い、それも風邪だとか所謂病気ではない何か。。。 今回の締めくくりは、メインストリームの事件の顛末ではなく、Liviaを苦しめていた理由がちょっと切なくて悲しかった。かつて、二人の間には養子にしようかと考えていた少年がいたが、その少年の遺体が発見される。Liviaは少年をとても可愛がったのだが、Montalbanoは責任を負いきれないため、結局養子は断念するという過去のエピソードが途中挟まれたのだが、こんなエンディングになるとは想像もできなかった私はすっかりスルーしてしまった。少年が息絶えたと思われる時刻に謎のLiviaの体調は何事もなかったかのように回復した。で、Montalbanoは悟るんだな・・・・ Liviaは少年の苦しみをまるでテレパシーのように受け止めていたんだと。そしてそれがわかった瞬間、Montalbanoは、事件の後始末をやっつけ、飛行機を予約し、Liviaの元にすっ飛んでいく。ようやくMilanoから帰ってきた恋焦がれていた女性はあっけないほどほったらかし(デートキャンセルの電話もなし)。

やはり、傍流のストーリーや、相変わらずの署の相棒たちのドタバタが楽しい一作。久しぶりというおまけつきで、かなり充実した回に大満足だった。

吉田健一ふたたび

1977年に没した吉田健一。没後40年以上を経て、新たな吉田健一論が出た。
評論の類は苦手だ。何だか小難しいし、作品の裏側をあーだこーだと解説されると興醒めだし、時には画一的な見方を強要されている気にもなってしまう。読み方のお手本は本来不要。でも、例外の作家もいる。その中の一人が吉田健一。どうにもあのチャーミングさが好きなのである。

吉田健一ふたたび
吉田健一ふたたび
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川本 直 樫原 辰郎 宮崎 智之 白石 純太郎 渡邊 利道 渡邉 大輔 仙田 学 武田 将明 富士川 義之 柴崎 友香 興梠 旦
冨山房インターナショナル (2019-02-21)


目次をのせておこう。
はじめに 川本直
Ⅰ 対談 
川本直・樫原辰郎「健坊、文士になる――吉田健一の生涯」
Ⅱ 批評1(随筆) 
宮崎智之「吉田健一の執着と自己表現の地平」
白石純太郎「交遊する精神の軌跡」
Ⅲ エッセイ1 
宮崎智之「「或る田舎町の魅力」に導かれて――吉田健一が愛した児玉という町」
Ⅳ 批評2(批評)
渡邊利道「孤独な場所で――吉田健一と日本文学」
渡邉大輔「『時間』の窪地に」
Ⅴ エッセイ2 
川本直「吉田健一邸を訪ねて」
Ⅵ 批評3(小説・翻訳)
樫原辰郎「吉田健一の長編小説に就て」
仙田学「こういう積み重ねがなくて人間はどこにもいることにならない」
川本直「楽園からの逃亡」
Ⅶ 講演「吉田健一と文学の未来」
武田将明「イントロダクション」
富士川義之「吉田健一という生き方」
柴崎友香「吉田健一と東京、小説の中の場所」
武田将明「吉田健一と「英国」の文学」
Ⅷブックガイド
川本直、樫原達郎、仙田学、渡邉大輔、武田将明、宮崎智之、渡邊利道、白石純太郎、興梠旦
おわりに 樫原辰郎


下世話な話だが、吉田健一の生涯、特にケンブリッジ大学を1年も経たずに退学し日本に戻ったわけは、私にとってやはり疑問だが、この本によれば、ケンブリッジ時代に師事したディッキンソンに
「外国語で書くということは、到底できないことだ。コンラッドの文章でも、間違いだらけだ」
といわれたことが原因だったという。私が想像したいた以上に、彼の英語力は凄かったらしい。それは日本人として英語が使えるという意味以上に、ケンブリッジ時代までなら、日本語が怪しかったというレベルであったらしい。もちろん話せないわけではないが、そこまでの人生で彼が接してきた文学は、日本語のフィルターを通していない原文ばかりであったのかもしれない。であれば、文学をやろうと思ったその時に、日本語という選択肢は考えていなかったのかもしれない。そうであったとしたら、その英語を外国語だと云われたことになるし、彼自身もそう納得したということになる。 ただ、ケンブリッジに入学した時には、文士になる予定はなかった、英語教師にでもなろうと思っていた。が、帰国するときは、文士になってやろうと考えて帰国した。そうなのか?・・・・。

帰国後、川上徹太郎に師事するが、”健坊”と呼ばれていたこの頃、仲間内では”ヤツの日本語は変”で、立ち振る舞いもナヨナヨして、帰国子女だった彼はいつも洋装で、川上徹太郎に云われて通ったアテネフランスでフランス語を瞬く間に学び、続いてギリシャ語もラテン語もすぐに学んで、卒業してしまった。川上曰く、”酒しか教えることがなくなってしまった”。とはいえ、当時不良の集まりも同様だった文士たちの中で、知性と教養だけはダントツなくせに、ナヨナヨした変な日本語を話す吉田は小林秀雄たちにとっては、いじめるにはいい鴨で、でも決して文士としてものなるような人物とは思われていなかった。

ここから彼がどれだけ勉強したのかはわからないが、相当なものだったという。そしてそれだけ詰め込んだ知識と教養が自分の中で消化できない時代が長く続く。喰う必要もあったのだろうが、そんな時代のことはエッセイで面白可笑しく書いている。法螺半分だが、半分くらいは本当なんだろう。自分のスタイルを探し、名声や評判には無頓着で、政治的イデオロギーにもかぶれず、ブームになってきた翻訳で喰いつなぎ、単書が出たのが37歳の時。そして、45歳のときに出した「シェイクスピア」の評論で初めて文学賞を受賞。時代を考えれば、相当な遅咲きと云われる所以だ。この辺りからおそらく、知名度もあがり、美味いものを喰って酒を飲んで、旅をするという、あの吉田健一が現れてくる。”余生の文学”と本人は云ったそうだが、この後、65歳で没するまでは実に充実した作品を発表している。

もうひとつ下世話ネタを書くと、この本には写真が何枚か掲載されており、吉田邸の概観と、書斎の写真、そして手酌で酒を飲む吉田に、晩年銀座で買い物をする姿を見ることができる。残念なことに吉田邸は取り壊されたそうだ。エッセイの中で家を建てるときの可笑しな話があるが、どうしてどうしてレンガと木立に囲まれた古いのだろうが、素敵な家に見える。娘の暁子さんは、吉田の書斎を生前のまま残しておいたそうで、吸殻までもそのままにしておいたらしい。青いGauloisesのタバコも残っている。ちなみに書斎は和風で、机は文机に座布団だ。吉田健一の長男は早くに亡くなり、娘の暁子さんも体調がよくないとのことで、家は処分せざるをえなかったらしい。仕方ないのだろうな。でも泣きそうになる。家がのこっていようが処分されようが、私には関係のないことなのだが・・・

この本は吉田健一の後の世代が、没後40年が経った今でも古びない彼の作品、というより文士としての生き方や姿勢を書き連ねてくれていて、もちろん代表作への論評がメインだ。でも私はミーハー的に好きなので、生涯だの家だのを読んでウルウルしてしまった。まだ吉田健一を読んだことがない人が読むといいな、から始まり、やっぱりある程度読んでからじゃないと楽しめないな、に変わり、最後はやっぱり本人が書いた作品を読むのが一番楽しいな、で終わった。巻末には「ブックガイド」として、彼の書いた本のリストのみならず、その内容も付してくれている親切さ。このブックガイドは今後何度も見直すと思う。

輝く金字塔

折角、平井呈一「こわい話・気味のわるい話〈第3輯〉」を読んだので、彼が日本に紹介したArthur Machenを。但しこのバベルの図書館シリーズは翻訳は平井氏ではなく、南條竹則。平井呈一であれば、もう少し古めかしい訳になったかもしれないが、これはこれで読みやすい訳だった。バベルの図書館シリーズは大人買いして全巻揃えてしまったが、未読がまだある(忘れている訳ではないんだが・・・)

輝く金字塔 (バベルの図書館 21)
アーサー マッケン
国書刊行会

Arthur Machen 1863年 - 1947年。ウェールズ出身の彼は、20世紀の怪奇小説の大きな影響を与え、ラヴクラフトは後継者。怪奇小説というものにあまり手を出していない私は、ラヴクラフトは未知の世界だが、彼の土台にあるケルト文化は、「ペガーナの神々」で出会った。が、あちらはどこかのんびりとした神々の話だったが、マッケンは悪魔色が強くて、闇夜の世界にどっぷりと浸かる気分になる。

下記3篇、どれも唸った。
黒い石印の話
白い粉末の話
輝く金字塔

ボルヘスの序文によれば、Arthur Machenは”マイナー詩人”だという。その理由は、
苦心の散文で書かれた彼の作品は、詩作品のみがもつあの緊張と孤独を湛えているからである。
出だしから不気味。そしてその不気味さがどんどん加速して、その不気味さは途中で止めることができない不気味さ。ボルヘスの云う”詩”の意味は、詩を解さない私には何ともいえないところだが、”緊張と孤独”はわかる。加速した不気味さのオチは必ずしも明確ではなく、魔界の謎が残るような終わり方なのだが、「もう、そこまでで結構です」と私はいいたい。

Arthur Machenは没後に評価され、生前は傍流と呼ばれてもいいようなものであって、生涯の大部分を大英博物館にいりびたりで過ごし、誰も読まないような隠微な本を読んでいたらしい。ロード ダンセイニの神々の話の裏側には、マッケンが描く邪悪さが潜んでいる。原始の神話の世界の表と裏ということか・・・・

The Book Thieves

FC2からアマゾンリンクを貼れる機能がなくなって以来、g-toolsを使っていたら、そちらもサービスを停止されてしまい、仕方なくamazletを使い始めたものの、どうもヒット率が低いのはどうしてだろう?今回もヒットしてくれなかったので、アフィリエイトはどうでもいいがこんな画像になってしまった。しかも見た目が悪すぎる。

気を取り直して・・・この本を知ったのは邦訳された「ナチ 本の略奪」からだけど、(高いので)英語にしてみたが、作者のAnders Rydellはスウェーデンのジャーナリストだそう。読みにくくはなかったけれど、固有名詞が多すぎてそれがドイツ語が多いときているのでくじけるし、英語が硬いんだよね。

     

ナチ 本の略奪
ナチ 本の略奪
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アンデシュ リデル
国書刊行会 (2019-07-13)
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ナチが略奪したものは多々あれど、美術品や宝石、金塊など金目のものばかり注目を浴びているが、書物の略奪にフォーカスしているのがこの本。焚書や発禁処分の話は知っているけれど、ここに描かれるのは野蛮なナチではなく、知の征服までを目論んだナチの戦略と、戦後、それらの略奪された途轍もない量の本を、元の持ち主に返そうという活動の話。焚書はいわば大衆に向けたデモンストレーションであって、むしろナチの本当の目的は反ナチス(ユダヤ人のみならず、フリーメイソン、共産主義、キリスト教等々)、つまり敵の情報収集、ひいてはそれらの思想や歴史を統制し、ナチの世界観を正当化し、世界史さえ書き換えるという壮大なものであった。ヒトラーにせよ、ナチスの幹部たちも、書物というのは文化であり、思想であることは、重々承知していたはずだが、怖いのは、人間の記憶さえ管理するということ。それは過去の歴史だけではなく、未来にわたって人間の記憶を管理することだ。

ナチが侵攻した国々、オーストリア、ポーランド等の東欧諸国、フランス、イタリア、果てはギリシャまで、物理的な軍事力による侵攻の後、そこの図書館、個人蔵書までを略奪していくわけだが、今回新たに知ったナチ幹部、全国指導者ローゼンベルク特捜隊(ERR) アルフレート・ローゼンベルクが主にその任務についていた。このローゼンベルクなる人物は、ヒムラーやゲッペルスほど有名ではないので、ググッとみると、確かに組織図上のタイトルと実権を比べると、実権がはるかに弱い人物で、所謂政治党争も下手で、出世できないタイプの人間であったようだ。ヒムラーとローゼンベルクの略奪本をめぐる ナチの内部争いも興味深く、同じナチでもアーリア至上主義と、反ユダヤ主義という隔絶があったらしい。ローゼンベルクは反ユダヤの立場であったが、ナチは最終的には、アーリア至上主義なので、同じ侵略でも、フランスやオランダ、北欧の国々と、東欧諸国とはことなってくる。東欧諸国=スラブは絶滅されるべきものであって、ポーランド侵攻においては、ポーランドそのものを地上から無くすことが究極の目的になる。アルフレート デーブリーンの「ポーランド旅行」を思い出した。

戦後、ナチが崩壊したとはいえ、ヨーロッパ各地から略奪された本の返還はたやすくはいかなかった。それはその膨大なる量のせいもあるが、戦勝国といわれる国、特にソ連がナチの資産を新たに略奪することになったからだ。これもソ連が崩壊する1989年以降は情報も徐々に公開され始めたが、今でも世界各地に散らばったままになっている大量の本が存在している。蔵書票Ex librisがある本はともかく、ほとんどの本には、持ち主に関する情報はなく、実際に多くの略奪本は国同士の取り決めや話し合いで交換されたり、売り買いされており、個人の蔵書にいたってはわずかな人々のボランティア活動が細々と続いている。

こわい話・気味のわるい話〈第3輯〉

この沖積舎の版は復刻版なんでしょうか?

壁画の中の顔 (こわい話気味のわるい話)

沖積舎
売り上げランキング: 1,544,702

調べ切れていないのだが、私が入手したのは、今はなき牧神社が1976年に発行した版でこちらの一番右側の第3巻。サイズは文庫より一回り大きい位で、ケースに入ったハードカバーの本。なかなか洒落た装丁。3冊並ぶと更にいい。アマゾンではもうこの第3巻は見つけられなかった。アマゾンにない本を持っていると、やったあ!という気分になる(笑)。

こわい話

平井呈一 編・訳というアンソロジーで、たぶんこの本を買ったのは、この中の何かが読みたかったんだろうけれど、それがどれだか何故だかは最後まで思い出せなかった。そもそも平井呈一は名前は存じ上げているが、今まであまり登場してこなかった。怪奇小説は敢えて選ぶほど得意ではない。ならどうして買ったんだろ?、この本。どの作家も初めて聞く(と思われる)名ばかり。

アーノルド・スミス 「壁画の中の顔」 
アーサー・キラ・クーチ 「一対の手」 
ジェイコブズ 「徴税所」 
シンシア・アスキス 「角店」 
ジェイムズ・レイヴァー 「誰が呼んだ?」 
ジョン・メトカーフ 「二人提督」 
R・ヒュー・ベンソン 「シャーロットの鏡」 
A・J・アラン 「ジャーミン街奇譚」 
アメリア・B・エドワーズ 「幽霊駅馬車」 
M・E・W・フリーマン 「南西の部屋」


怪奇小説という字面は馴染みがないとドロドロとした幽霊ものなんかを想像してしまうが、平井呈一くらいになると、怖いくらいではアンソロジーには採用してもらえない。所謂、怖いものは実際にない。気味が悪いというのも、科学的にはありえないという意味での気味悪さで、むしろ所々クスっと笑える人間の可笑しささえ含んでいる。玄人が選んだ奥の深い?幅の広い?奇想譚だった。

平井呈一は翻訳も多く手がけたが、今時の翻訳者はこういう風には絶対に訳さないだろうな、というよい意味での古臭さもよかった。
”この道さ行きやんすと、十文字に出るだで、・・・・・・・・ 牧師館の前へ出るがんす・・・・・”
”がんす”って聞いたのは何十年ぶりだろう。夏目漱石が I love you を「月がきれいですね」と和訳したという話は有名だが、昔の文豪たちの翻訳は、日本語として不自然であればおおいにアレンジしていたところが私も好きだ。翻訳は、翻訳された時点で、別の作品になるんだからね。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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