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おたのしみ弁当

この度、会社を辞めることにした。転職ばっかりしていたにも関わらず、引継がこんなに大変だったことはない。思うにろくでもない会社ほど引継は大変になると思われる。この顛末はヒマになったら書いてもいいが(当面プータローになる)、おかげでとっくに読み終わったこの本の感想は書けないし、精神的にもアンバランスで本なんて全く読めない。でもあと一週間で手切れとなるので、いまはじっと我慢している。

4062902184おたのしみ弁当 吉田健一未収録エッセイ (講談社文芸文庫)
吉田 健一
講談社 2014-01-11

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ということで、すっかり内容が思い出せない「おたのしみ弁当」。
これは集英社から出た吉田健一全集から漏れた過去の雑誌・新聞等のエッセイをまとめて編集したものらしく、昭和20年代30年代の作品も多くて興味深い。酒と喰物の身近な楽しいエッセイと、吉田氏本業の評論の2部構成。寄せ集めのようだが、若き日の文学論が読めるというのがなかなかいい。

ある程度歳を経てきてからの文章は、味があってよいのだが、まだとがっていたころの真面目な(笑)文学論は興味深い。それも三島由紀夫、伊藤整、プルースト、ゲーテ、オーウェル、マルクスと、若き日にむさぼり読んだであろう作家たちが並ぶ。いや、もしかしたら、喰うことに必死だった時代にひたすら書いていた書評なのかもしれない。自分でも何をどうしたいのか、試行錯誤していたのかもしれない。

今まで見えなかった顔がちょっと見える一冊。
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汽車旅の酒

ついでなので、もう一冊、酒と旅シリーズ。立て続けに読んだら、どのエッセイがどっちに合った話なのか、わからなくなってきたので、まあ、吉田健一と酒と旅と美味い喰物の話しについて・・・ということで。

412206080X汽車旅の酒 (中公文庫)
吉田 健一
中央公論新社 2015-02-21

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何の用事もなく、気づいたら汽車に乗って旅にでていたというのが理想の形だそうで、もちろん名所旧跡巡りなんかせず、読書でさえ愚の骨頂らしい。新潟にいて北極の本を読んでいると、自分の居場所が北極になる。北極になるくらいの本でなければ、そもそも読む意味などないのだが(と、ちくりと吉田節)、とにかく新潟にいて北極にいるつもりになることはないじゃないか、と彼はいう。 とにかく何もしないで、酒を飲む。そして気に入った同じ場所を何度も訪ね、そこが変わらずにずっと同じでい続けてくれることがとても嬉しいと云っている。

今週台風の影響で新幹線がストップし、普通の東海道線で帰宅する羽目になった。結局80分程度でつくところが、途中大きな川にかかる鉄橋が渡れず、150分かかった。それはそれとして、そのローカルな東海道線に乗って、彼の云う汽車の旅が頭を駆け巡り、じゃ、本でも読まずに景色でも眺めてみようと決めた。もちろん酒を飲むわけではないが、通勤といってしまえばそれまでのものが、ちょっと思考を広く持てば、それは小さな旅になる。台風で車体が揺らぐほどの強風ではあったけれど、改めて眺める外の景色はちょっと楽しかった。

何もない街を探していたら、八高線の児玉という街を見つけた。
昔は秩父街道筋の宿場で栄えた児玉の、どこか豊かで落ち着いている上に、別にこれと言った名所旧跡がない為ののんびりしたい心地にそれがある。
児玉は戦争の被害が少なかったらしく、昔の面影が残ったままで、昔の東京もこんなであったであろうと、彼は懐かしんだようだ。
広い場所に人間が少くて、始めて文化と呼ぶに足るものが生れる。
と、それが児玉らしい。そして、つまり彼が云うのはこういうことなんだな。

旅の目的というのは、目的地に到達することではなく、そもそも旅に目的も不要で、旅に出ようと決めたその時から既に旅は始まっていて、その旅の過程をすべて楽しく快適に穏やかに心豊かにする。その中に酒も喰いものも含まれ、絡み、繋がっていく。そして時間も繋がっていく。

二日酔いの頭を抱えた翌朝が雨だったりすると、ぼんやり雨だと思って外を眺めているのもなかなかいいもので、人間、そういう時でもなければ自分が確かに自分がいる所にいるのを感じるのは難しい。

最後に短篇が二つあるのだが、吉田健一の短篇って正直いうと、良さがわからない(つならない、と言い切る自信がないだけだが)。ごめんなさい。

酒肴酒

完全な下戸である私は、酒の話しは恐れ多くて避けていた。酒飲みの気持ちなんてわからない。でも、吉田健一と云えば、酒だ。そして、本人の気持ちがどうであれ、酒に関する彼のエッセイは多いし、ファンが多いことも確か。そして、読み終えたあと、改めて納得した。この味わいは他に例をみないな・・・

4334740278酒肴酒 (光文社文庫)
吉田 健一
光文社 2006-02-09

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彼の文学論は正直私には理解できないことも多いが、この酒と喰物のエッセイは、楽しいし笑えるし・・・ということだけでなく、彼にとって何が美しくて、何が大切で、どんな暮らしが人間として真っ当なのか、そして彼が普段何を妄想(笑)しながら日々を営んでいるのかがとてもわかる。引用したい文章は沢山ありすぎて、だからきっと何度読んでも楽しい本になりそうだ。時代はおそらく昭和30年代から40年代にかけての話しだと思う。新幹線というものが出来たという話しが出てくる頃だ(ちなみに新幹線はお嫌いだ)。私が子供だった時代(か、それ以前)を思い出しながら、そんな昭和の時代を懐かしく思うこともできる。

吉田健一は旅に出るのが好きだ。だが、日常の糧を稼ぐ身であるので、そうそう好き勝手にも旅には行けない。だが、隙あらば旅に出ようとする。旅は観光ではなく、何度も通い馴染みになった町へ何度も出かける。そこには美味い酒と肴があり、旅の始まりは、汽車に乗る前から始まり、そこから飲みはじめ、旅が終わるまでただひたすら飲む。どうも、”酒を飲む分には途中で必要な時間だけ眠ることさえ出来れば際限無く飲んでいられる”らしい。海外暮らしも経験しているので、酒と肴の話しは、子供の頃に暮らした戦前の中国や、フランスやイギリスにも及ぶ。どうもワインはブルゴーニュがお好きらしく、”葡萄酒もいいのに当たると、飲むだけではなくて風呂桶をこれで波々と満して頭から浴びたくなる。”らしい。もちろん、よくあるワインの(いや、葡萄酒ね)蘊蓄なんて欠片もない。そんなものは、彼にとってはどうでもいい。そして、何でも本当に美味い日本酒というのは、甘口とか辛口とかを通り越して、水のように感じるとも云っている。

確かに、飲む量が半端でない。彼の場合、並みの人とはまず単位が違う。酒ならUnitは一升瓶何本飲むか、ってことなので、ビールに至っては、”とても沢山”としか表現できまい。一升瓶のあと、葡萄酒2本と、そしてウイスキーボトル半分、とかそういう単位なのだ。ただ、「父・吉田健一」での吉田暁子さんの証言では、若いころはまだしも、晩年は週に一度と旅に出た時以外は、飲まなかったという。 そして彼にとって、酒を飲むことは、酒をただ飲むことではなく、朝であれば朝の、昼であれば昼の、夜であれば夜の、その空気や風とともに飲んでいるのだ。酒は勿論好きなのだろうが、こうやって飲みたいという確固たる姿は彼にはあり、読了の後に残るのは、酒と喰物を通して彼が何を見ていたのかということなのだと思う。

吉田健一は決して美食家ではない。一流料亭から駅構内の食堂、おでん屋なんて大好きである。そしてどうもハムエッグはおまけのピーナッツのように食べるらしく、汽車の食堂車(食堂車がない汽車にはちょっと不満がある)でも、とりあえずビールとともに、こんな風にたべる。
ハム・エッグスが来たら、辛子をハムにも卵にも一面塗り付けて、その上にソースをたっぷりかけると、不思議と正直な味がして、実にいい。
マスタードとソース(それは、ウスターソースなのだろうか?)をかけて食べるというのは、初めて聞いた。これは英国仕込みなのだろうか?このハムエッグスを一度試してみたくてしょうがない。

ブライヅヘッドふたたび

予告通り、素直に「ブライヅヘッドふたたび」を読み始めた。これは1981年イギリスでテレビドラマ化されていて、表紙はそこからのもの。主人公チャールスを演じているのは、なんと、若かりし日のジェレミー・アイアンズ。このドラマがネットで見ると、すこぶる評判がよい。ちょっと気になるところだ。

4480024514ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)
イーヴリン ウォー 吉田 健一
筑摩書房 1990-08

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主人公はチャールスという画家である。冒頭、第二次大戦で陸軍大尉となっている彼が、豪奢な邸宅にたどりつく。そこはブライズヘッドと呼ばれるマーチメイン侯爵家の屋敷だが、彼が若かりし青春の日々に、Oxfordで出会った一家の次男セバスチャンの家である。そして物語は、戦争がはじまる前1920年代のOxfordに遡り、チャールスの回想が始まる。美しい容姿を持つセバスチャンには、うり二つの美しい妹ジュリア、いかにも名門家の長男のブライディー、信仰心はあるが器量は悪い末っ子コーデリアの三人の兄弟がいる。そして母はカトリックの信仰篤く、父はそんな夫人に耐えられず、別居しイタリアで愛人カーラーとともに暮らしている。

Oxfordで親友となったチャールスとセバスチャンだが、前半の上流社会の豪奢さはそのドラマ化された映像で見たら、さぞかし美しかろうと思う。中流出のチャールスにとって名門貴族に属するセバスチャンとは実は階級からすると格段の差がある。が、セバスチャンは、品行方正とは云えない放蕩息子的な描かれ方で、お堅いカトリック一家の中でも問題児だ。やや甘ったるい雰囲気も、ブライズヘッドを訪れ、マーチメイン侯爵家の面々が少しずつ現れると、とたんに面白くなってくる。父親不在、母はカトリックの信仰厚き旧体質の人間であり、名門家といえども英国におけるカトリックはあくまで少数派。マーチメイン一家の実情が明らかになるにつれ、そこに居場所を見つけらないでいるセバスチャンの心の内も見えてきて、やがて彼は飲酒におぼれ、大学も中退し、海外へ放浪の旅にでてしまう。 一家は実質家族としては破綻しており、そこにいる人々も皆それぞれに不幸だ。

英国内の少数派であるカトリックとその信徒たちのことは、つらつらとネットで見ていた。だが、こういうことは表面的な知識でどうにかなるものでもなく、それは日本で習慣との区別がつかなくなっている神道とか、天皇家の存在とも似ていて、理屈ではないところで、実感できるものなのかもしれない。だからお互いに結婚している身でありながら愛し合うチャールスとジュリアが最終的に破綻した理由、つまりジュリアがチャールスと結婚できないという気持ちがよくわからない。そしてカトリックへの信仰心薄いジュリアが、父の死をきっかけとして、それを捨てきれなくなる気持ちもわからない。ジュリアがチャールスと別れる時に云うには、今まで悪い事ばかりしてきたからこそ、神さまからの恩寵が必要で、だからこ神様なしには生きていけない、チャールスと結婚するということは、その後の人生を神様なしで生きていくということで、そこまで悪い人間になり下がることは赦されない(というようなこと・・・)
最後にカトリックの信仰を取り戻そうとするマーチメイン家の不幸せな人々こそが、悔い改め神の許しを得なければならない人々で、そして悔い改めさえすれば許されるのが、カトリックなのか?
滅びゆく名門貴族と対照的に登場するのは、ジュリアの夫レックスとチャールスの妻シーリアで、この二人は典型的な新興勢力であり、世俗的で無神論者として登場する。つまり、神によって救われるべき存在は、マーチメイン家のカトリック教徒たちで、この二人はアンチであり、その描かれ方も否定的だ。このアンチな二人は悲しいことにこの本に登場する誰よりもわかりやすい。決して悪人でもないし、現代の成功者でもある、が、いかんせん美しくないのだ。

戦時中、負傷したイーヴリン・ウォーがその隊を退いていた時に書いたといわれるこの本だが、その荒廃した時代だからこそ、美しき昔を描きたかったというが、信仰の問題はさておいても、世俗的な新興勢力の描き方はかなりえげつないし、ウォーの視点もそういうことなのだと段々わかってきた。これ、一見気づきにくいのだけれど、気づいてしまうと、驚くほどラディカル。イギリスで虐げられているカトリックなのに、大丈夫だったのか?と心配になる程。

テレビドラマ版見たいなあ。。。

隠し部屋を査察して

「ミステリウム」「パラダイス・モーテル」に続いて三冊目のエリック・マコーマック。今回は短篇集。そして解説は柴田元幸。お盆休みは13日から15日の三日間。何もしないと心に決めて、夕方父の所に行く以外は、本当に何もしなかった。で、何をしていたかというと本を読んでいた。通勤中の途切れ途切れ読書ではなく、が~~とまとめて読むのは久しぶりだ。家で一番涼しいエアコン下に、タオルケットを敷き、寝転がって読むのは何がいいのかと思って、肩の凝りそうもないこの本にしてみた。

4488504035隠し部屋を査察して (創元推理文庫)
エリック・マコーマック 増田 まもる
東京創元社 2006-05-20

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ひとつひとつは結構短い。
「隠し部屋を査察して」
「断片」
「パタゴニアの悲しい物語」
「窓辺のエックハート」
「一本脚の男たち」
「海を渡ったノックス」
「エドワードとジョージナ」
「ジョー船長」
「刈り跡」
「祭り」
「老人に安住の地はない」
「庭園列車 第一部:イレネウス・フラッド」
「庭園列車 第二部:機械」
「趣味」
「トロツキーの一枚の写真」
「ルサウォートの瞑想」
「ともあれこの世の片隅で」
「町の長い一日」
「双子」
「フーガ」


「パラダイスモーテル」と「ミステリウム」でおよそ作風はわかっていたが、今回は短篇集ということで、猟奇的でグロテスクで奇想天外のオンパレードだったが、この人よくこういうことを思いつくなあと感心した。エリック・マコーマックのいいところは、ドライでカラッとしていて、人間の内側のドロドロではなく、事象の奇想さであって、実際に時折ここまでやるか、と笑ってしまうこともある。そして、笑ってしまいながらも最後は決まって物悲しい。この発想はエリック・マコーマックにとっては遊びの精神から生まれてくるんじゃなかろうかと、私は勝手に想像している。教訓じみたものはない。このグロさを前にして云うのもなんだが、健全な精神があってこそのこのノビノビ感なのではないかと思っている。

この感じ誰かに似ているなあ・・・そうそう、コルタサルだ。お国の違いはあれど、コルタサルの短篇集を次から次へと読み耽るとこんな感じになった気がする。そして、最後の短篇「フーガ」の冒頭ににコルタサルの引用がある。マコーマックがコルタサルを素通りするはずはなかった。

奇想譚色々あれど、その良さ、否、好き嫌いは、どれだけ奇想が突飛かということではないような気がしてきた。思いもつかない展開で驚かされるだけだと、ただお腹一杯になるだけだ。では何だろう?後味か?マコーマックは1冊読むとややお腹一杯になる。コルタサルは腹八分目ってとこだな(個人比)。比較するのもどうかと思うが、星新一はまだまだいけるぞ、という気になる(笑)

書架記

う~~ん、そうきたか、というのが感想。吉田健一氏がよくある愛書の紹介なんてするはずなかった。

4122009014書架記 (中公文庫 A 50-5)
吉田 健一
中央公論新社 1982-02-10

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下記が掲載されているのだが、どれ一つ読んでいない。読んでいればわかるという単純なものでもない。途中気づいたんだよね、これは本の紹介ではなく、彼の自伝みたいなものなのだろう。
ラフォルグの短篇集
「ヴァリエテ」
プルウストの小説
ドヌ詩集
「悪の華」
ワイルドの批評
エリオット・ポオルの探偵小説
マルドリュス訳の「千夜一夜」
ホップキンス詩集
「パルマの僧院」
イエイツ詩集
「ブライヅヘッド再訪」
「テスト氏」
ディラン・トオマス詩集


彼も一般読者にあてて書いているわけでもない。そもそもレベルの低い読者は(笑)とっとと切り捨てている。ではなんなのか?というと、後記にこうある。
これはもともと本棚にある本で殊に愛着のあるものを一つずつ扱う積もりでいたのが書上げた結果を見るとその半分が曾てどこかに住んでいる時には本棚にあって今はないものになっている。それな らばこれはその程度にその曾てはあった本に対する追悼文だろうか。 併しそれでも構わない。現に本棚にあるものも未来永劫にそこにあるものではなくて本が我々にとって持つ意味というものはそういうことと無縁のようである。

昭和48年6月 著者


これらの本は、彼が「運命的なものが働いている」と感じた本を選び、そしてその本たちは 暗記してしまうほど繰り返して読み、その付き合い方はまるで「生活の上で起こった或る種の事件」のような相貌を帯びてしまった、ものであるという。その”生活の上で起こった或る種の事件”というのは、どういう感覚なのだろうとずっと考えているが未だわからない。ラフォルグの短篇集で、こんなことを云っている。
これを最初に読んだ時に経験したことはその後にも先にもないもので、こんなことを書いた人間もいたのかと思うよりも前世か何かで自分が書いたことをそれまで忘れていた感じだつた。
”あの”吉田健一にして、これを云わしめたのだから、彼が若かりし日に出会ったラフォルグの詩から受けた衝撃は相当なものであったことは十分想像できる。それにしても、”前世で自分が書いたことを忘れていた感じ”は、吉田氏以外に感じることができる感覚なのだろうか??

それぞれの本はいつも本の姿から入る。装丁、版、紙質、製本の仕方・・・ここに紹介されている本の大半は戦争で焼けてしまったという。戦前の蔵書はちょっとしたものだったらしく、その後二度と手元にはなくとも、そらんじられるほど繰り返し読んだ本、版は違えど、再び手に入れた本、何度も何度も読むということは、脳みそだけではなく、指の先の触覚までも染み込んで自分の一部になるものなのだろうか?何度も何度も読むからこそ、本というものは読めればいいやの姿ではいけないのだと気づかされる。紙質然り、製本方法然り。なぜ紙の本なのか、それは本というものはこうやって人と伴に生きながらえていくべきものだからこその形だったのだ。
と、内容には全くついていけなかったが、そこに気づいただけでも今回の読書は私にとっては眩暈だった。そして寝かせてあった「ブライヅヘッド再訪」 を手に取り、ついでにエリオットポールを1冊入手してみた。

夏の話し

当たり前だと思っていた”夏は暑い”という常識が覆りそうな今年の夏。
例年にないほど梅雨明けが早かったのは、少し喜んだが(自転車小僧にとって雨はホントに嫌なもの)、それは糠喜びで、長いような長くないような私の人生の中でも、今年ほど暑かったことはなかったろうと思う。東京-小田原間の通勤者は毎日、その2点の気温を味わうわけだが、東京から戻ると異常な酷暑であっても小田原ははるかにマシだと実感している。

昨日今日と30℃程度の普通の夏になった。30℃がこの程度のものだったかと驚いた人は私だけではないはず。驚いたのは実はこういうフィジカルな感覚ではなく精神のほうで、至極ゆったりとした気分になったことに驚いた。景色が見えるとか、ちょっとゆっくり歩いてみるとか、そういうことだ。水曜日の夜中このあたりはゲリラ豪雨と呼んでいいほどの雨が降った。雨は好きではないが、見事なまでの降りっぷりにしばし見とれてしまった。すべてを流し切ってくれる滝のような雨だった。雨をうっとり眺めたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。そして翌朝気温は下がり、風には少しの冷たさが加わった。

確実に世界的に気温は上昇しているという。子供の頃はエアコンなんてものはなかったが、子供だったからかもしれないが、暑さにうんざりした記憶はない。午後の一番暑い時間は家の中の一番涼しい北側の縁側で昼寝をした(させられた)。一番暑い時間帯をそうやって過ごして、ピークが過ぎると外でまた遊んだ。今年は生命に危険が及ぶくらいの暑さだとニュースががなっている。エアコンを適切に使用、などという穏やかなものではなく、命令するかのように、不要不急の外出は控えろ、エアコンをつけろと命令される。そのくらい暑いことは承知はしているものの、なんだか少し淋しい気持ちになる。暑さを凌ぐ知恵も工夫も越えた状態なのだ。

特段寒い地域でない限り日本家屋は元来、夏涼しく過ごせるような作りになっていた。私の実家がまさにそれだ。自分で暮らすようになってからは、現代の極小コンクリート住宅ばかりに住んでいたので、その涼しさには今でも驚くことがある(その代わり冬は寒いが・・・)。風の抜け方、日差しの遮り方、見事だと思う。密閉式の住宅で文明の利器で空調を常時調整してもらうのも、それはそれなのだろうが、不具合や不便やらを完全に取り除くのではなく、上手にやり過ごしたり、上手に付き合ったり、いっそ楽しんでしまうということが減ってしまった。暑いは暑いだけになり、夕刻が近づくにつれて少し風が涼しくなっていくのを感じるような余裕はなくなってきた。こういうことを毎年夏になるといつも思ったりするなあ、と今思い出した。

そうそう、この時期に満開となる百日紅が咲いていることに昨日気づいた。やっと気づいた。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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