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ブライヅヘッドふたたび

予告通り、素直に「ブライヅヘッドふたたび」を読み始めた。これは1981年イギリスでテレビドラマ化されていて、表紙はそこからのもの。主人公チャールスを演じているのは、なんと、若かりし日のジェレミー・アイアンズ。このドラマがネットで見ると、すこぶる評判がよい。ちょっと気になるところだ。

4480024514ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)
イーヴリン ウォー 吉田 健一
筑摩書房 1990-08

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主人公はチャールスという画家である。冒頭、第二次大戦で陸軍大尉となっている彼が、豪奢な邸宅にたどりつく。そこはブライズヘッドと呼ばれるマーチメイン侯爵家の屋敷だが、彼が若かりし青春の日々に、Oxfordで出会った一家の一家の次男セバスチャンの家である。そして物語は、戦争がはじまる前1920年代のOxfordに遡り、チャールスの回想が始まる。美しい容姿を持つセバスチャンには、うり二つの美しい妹ジュリア、いかにも名門家の長男のブライディー、信仰心はあるが器量は悪い末っ子コーデリアの三人の兄弟がいる。そして母はカトリックの信仰篤く、父はそんな夫人に耐えられず、別居しイタリアで愛人カーラーとともに暮らしている。

Oxfordで親友となったチャールスとセバスチャンだが、前半の上流社会の豪奢さはそのドラマ化された映像で見たら、さぞかし美しかろうと思う。ちなみに本の表紙はそのドラマの一場面だ。中流出のチャールスにとって名門貴族に属するセバスチャンとは実は階級からすると格段の差がある。が、セバスチャンは、品行方正とは云えない放蕩息子的な描かれ方で、お堅いカトリックの一家の中でも問題児だ。やや甘ったるい雰囲気も、ブライズヘッドを訪れ、マーチメイン侯爵家の面々が少しずつ現れると、とたんに面白くなってくる。父親不在、母はカトリックの信仰厚き旧体質の人間であり、名門家といえども英国におけるカトリックはあくまで少数派。マーチメイン一家の実情が明らかになるにつれ、そこに居場所を見つけらないでいるセバスチャンの心の内も見えてきて、やがて彼は飲酒におぼれ、大学も中退し、海外へ放浪の旅にでてしまう。 一家は実質家族としては破綻しており、そこにいる人々も皆それぞれに不幸だ。

英国内の少数派であるカトリックとその信徒たちのことは、つらつらとネットで見ていた。だが、こういうことは表面的な知識でどうにかなるものでもなく、それは日本で習慣との区別がつかなくなっている神道とか、天皇家の存在とも似ていて、理屈ではないところで、実感できるものなのかもしれない。だからお互いに結婚している身でありながら愛し合うチャールスとジュリアが最終的に破綻した理由、つまりジュリアがチャールスと結婚できないという気持ちがよくわからない。そしてカトリックへの信仰心薄いジュリアが、父の死をきっかけとして、それを捨てきれなくなる気持ちもわからない。ジュリアがチャールスと別れる時に云うには、今まで悪い事ばかりしてきたからこそ、神さまからの恩寵が必要で、だからこ神様なしには生きていけない、チャールスと結婚するということは、その後の人生を神様なしで生きていくということで、そこまで悪い人間になり下がることは赦されない(というようなこと・・・)
カトリックに最後に戻るマーチメイン家の不幸せな人生を送る人々こそが、悔い改め神の許しを得なければならない人々で、そして悔い改めることで許されるのが、カトリックなのか?
滅びゆく名門貴族と対照的に登場するのは、ジュリアの夫レックスとチャールスの妻シーリアで、この二人は典型的な新興勢力であり、世俗的で無神論者として登場する。つまり、神によって救われるべき存在は、マーチメイン家のカトリック教徒たちで、この二人はアンチであり、その描かれ方も否定的だ。このアンチな二人は悲しいことにこの本に登場する誰よりもわかりやすい。決して悪人でもないし、現代の成功者でもあるにもかかわらず・・・だ。

戦時中、負傷したイーヴリン・ウォーがその隊を退いていた時に書いたといわれるこの本だが、その荒廃した時代だからこそ、美しき昔を描きたかったというが、信仰の問題はさておいても、世俗的な新興勢力の描き方はかなりえげつないし、ウォーの視点もそういうことなのだと段々わかってきた。一見気づかないのだけれど、気づくと結構賛否両論を引き起こしかねない問題を抱合していた。

隠し部屋を査察して

「ミステリウム」「パラダイス・モーテル」に続いて三冊目のエリック・マコーマック。今回は短篇集。そして解説は柴田元幸。お盆休みは13日から15日の三日間。何もしないと心に決めて、夕方父の所に行く以外は、本当に何もしなかった。で、何をしていたかというと本を読んでいた。通勤中の途切れ途切れ読書ではなく、が~~とまとめて読むのは久しぶりだ。家で一番涼しいエアコン下に、タオルケットを敷き、寝転がって読むのは何がいいのかと思って、肩の凝りそうもないこの本にしてみた。

4488504035隠し部屋を査察して (創元推理文庫)
エリック・マコーマック 増田 まもる
東京創元社 2006-05-20

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ひとつひとつは結構短い。
「隠し部屋を査察して」
「断片」
「パタゴニアの悲しい物語」
「窓辺のエックハート」
「一本脚の男たち」
「海を渡ったノックス」
「エドワードとジョージナ」
「ジョー船長」
「刈り跡」
「祭り」
「老人に安住の地はない」
「庭園列車 第一部:イレネウス・フラッド」
「庭園列車 第二部:機械」
「趣味」
「トロツキーの一枚の写真」
「ルサウォートの瞑想」
「ともあれこの世の片隅で」
「町の長い一日」
「双子」
「フーガ」


「パラダイスモーテル」と「ミステリウム」でおよそ作風はわかっていたが、今回は短篇集ということで、猟奇的でグロテスクで奇想天外のオンパレードだったが、この人よくこういうことを思いつくなあと感心した。エリック・マコーマックのいいところは、ドライでカラッとしていて、人間の内側のドロドロではなく、事象の奇想さであって、実際に時折ここまでやるか、と笑ってしまうこともある。そして、笑ってしまいながらも最後は決まって物悲しい。この発想はエリック・マコーマックにとっては遊びの精神から生まれてくるんじゃなかろうかと、私は勝手に想像している。教訓じみたものはない。このグロさを前にして云うのもなんだが、健全な精神があってこそのこのノビノビ感なのではないかと思っている。

この感じ誰かに似ているなあ・・・そうそう、コルタサルだ。お国の違いはあれど、コルタサルの短篇集を次から次へと読み耽るとこんな感じになった気がする。そして、最後の短篇「フーガ」の冒頭ににコルタサルの引用がある。マコーマックがコルタサルを素通りするはずはなかった。

奇想譚色々あれど、その良さ、否、好き嫌いは、どれだけ奇想が突飛かということではないような気がしてきた。思いもつかない展開で驚かされるだけだと、ただお腹一杯になるだけだ。では何だろう?後味か?マコーマックは1冊読むとややお腹一杯になる。コルタサルは腹八分目ってとこだな(個人比)。比較するのもどうかと思うが、星新一はまだまだいけるぞ、という気になる(笑)

書架記

う~~ん、そうきたか、というのが感想。吉田健一氏がよくある愛書の紹介なんてするはずなかった。

4122009014書架記 (中公文庫 A 50-5)
吉田 健一
中央公論新社 1982-02-10

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下記が掲載されているのだが、どれ一つ読んでいない。読んでいればわかるという単純なものでもない。途中気づいたんだよね、これは本の紹介ではなく、彼の自伝みたいなものなのだろう。
ラフォルグの短篇集
「ヴァリエテ」
プルウストの小説
ドヌ詩集
「悪の華」
ワイルドの批評
エリオット・ポオルの探偵小説
マルドリュス訳の「千夜一夜」
ホップキンス詩集
「パルマの僧院」
イエイツ詩集
「ブライヅヘッド再訪」
「テスト氏」
ディラン・トオマス詩集


彼も一般読者にあてて書いているわけでもない。そもそもレベルの低い読者は(笑)とっとと切り捨てている。ではなんなのか?というと、後記にこうある。
これはもともと本棚にある本で殊に愛着のあるものを一つずつ扱う積もりでいたのが書上げた結果を見るとその半分が曾てどこかに住んでいる時には本棚にあって今はないものになっている。それな らばこれはその程度にその曾てはあった本に対する追悼文だろうか。 併しそれでも構わない。現に本棚にあるものも未来永劫にそこにあるものではなくて本が我々にとって持つ意味というものはそういうことと無縁のようである。

昭和48年6月 著者


これらの本は、彼が「運命的なものが働いている」と感じた本を選び、そしてその本たちは 暗記してしまうほど繰り返して読み、その付き合い方はまるで「生活の上で起こった或る種の事件」のような相貌を帯びてしまった、ものであるという。その”生活の上で起こった或る種の事件”というのは、どういう感覚なのだろうとずっと考えているが未だわからない。ラフォルグの短篇集で、こんなことを云っている。
これを最初に読んだ時に経験したことはその後にも先にもないもので、こんなことを書いた人間もいたのかと思うよりも前世か何かで自分が書いたことをそれまで忘れていた感じだつた。
”あの”吉田健一にして、これを云わしめたのだから、彼が若かりし日に出会ったラフォルグの詩から受けた衝撃は相当なものであったことは十分想像できる。それにしても、”前世で自分が書いたことを忘れていた感じ”は、吉田氏以外に感じることができる感覚なのだろうか??

それぞれの本はいつも本の姿から入る。装丁、版、紙質、製本の仕方・・・ここに紹介されている本の大半は戦争で焼けてしまったという。戦前の蔵書はちょっとしたものだったらしく、その後二度と手元にはなくとも、そらんじられるほど繰り返し読んだ本、版は違えど、再び手に入れた本、何度も何度も読むということは、脳みそだけではなく、指の先の触覚までも染み込んで自分の一部になるものなのだろうか?何度も何度も読むからこそ、本というものは読めればいいやの姿ではいけないのだと気づかされる。紙質然り、製本方法然り。なぜ紙の本なのか、それは本というものはこうやって人と伴に生きながらえていくべきものだからこその形だったのだ。
と、内容には全くついていけなかったが、そこに気づいただけでも今回の読書は私にとっては眩暈だった。そして寝かせてあった「ブライヅヘッド再訪」 を手に取り、ついでにエリオットポールを1冊入手してみた。

夏の話し

当たり前だと思っていた”夏は暑い”という常識が覆りそうな今年の夏。
例年にないほど梅雨明けが早かったのは、少し喜んだが(自転車小僧にとって雨はホントに嫌なもの)、それは糠喜びで、長いような長くないような私の人生の中でも、今年ほど暑かったことはなかったろうと思う。東京-小田原間の通勤者は毎日、その2点の気温を味わうわけだが、東京から戻ると異常な酷暑であっても小田原ははるかにマシだと実感している。

昨日今日と30℃程度の普通の夏になった。30℃がこの程度のものだったかと驚いた人は私だけではないはず。驚いたのは実はこういうフィジカルな感覚ではなく精神のほうで、至極ゆったりとした気分になったことに驚いた。景色が見えるとか、ちょっとゆっくり歩いてみるとか、そういうことだ。水曜日の夜中このあたりはゲリラ豪雨と呼んでいいほどの雨が降った。雨は好きではないが、見事なまでの降りっぷりにしばし見とれてしまった。すべてを流し切ってくれる滝のような雨だった。雨をうっとり眺めたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。そして翌朝気温は下がり、風には少しの冷たさが加わった。

確実に世界的に気温は上昇しているという。子供の頃はエアコンなんてものはなかったが、子供だったからかもしれないが、暑さにうんざりした記憶はない。午後の一番暑い時間は家の中の一番涼しい北側の縁側で昼寝をした(させられた)。一番暑い時間帯をそうやって過ごして、ピークが過ぎると外でまた遊んだ。今年は生命に危険が及ぶくらいの暑さだとニュースががなっている。エアコンを適切に使用、などという穏やかなものではなく、命令するかのように、不要不急の外出は控えろ、エアコンをつけろと命令される。そのくらい暑いことは承知はしているものの、なんだか少し淋しい気持ちになる。暑さを凌ぐ知恵も工夫も越えた状態なのだ。

特段寒い地域でない限り日本家屋は元来、夏涼しく過ごせるような作りになっていた。私の実家がまさにそれだ。自分で暮らすようになってからは、現代の極小コンクリート住宅ばかりに住んでいたので、その涼しさには今でも驚くことがある(その代わり冬は寒いが・・・)。風の抜け方、日差しの遮り方、見事だと思う。密閉式の住宅で文明の利器で空調を常時調整してもらうのも、それはそれなのだろうが、不具合や不便やらを完全に取り除くのではなく、上手にやり過ごしたり、上手に付き合ったり、いっそ楽しんでしまうということが減ってしまった。暑いは暑いだけになり、夕刻が近づくにつれて少し風が涼しくなっていくのを感じるような余裕はなくなってきた。こういうことを毎年夏になるといつも思ったりするなあ、と今思い出した。

そうそう、この時期に満開となる百日紅が咲いていることに昨日気づいた。やっと気づいた。

小説の森散策

なんでも、「プラハの墓地」に登場した「シオンの議定書」に関する話しがこの本にあるらしい、というので、読んでみることにした。
これは、ハーバード大学ノートン詩学講義(1992─93)の記録。このノートン詩学講義というのが有名らしく、過去すっごい面子が講義をしている。T・S・エリオットやボルヘス、オクタピオ・パスらも講義し、イタリアではカルヴィーノが初となる手前で残念ながらお亡くなりになった。でもその内容は「カルヴィーノの文学講義」という本になっている。これは多分読んだ気がするが、相変わらずほぼ覚えていない。が、1点だけ、「軽さ」「早さ」について何か云っていた気がするが・・・

4003271815ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)
ウンベルト・エーコ 和田 忠彦
岩波書店 2013-02-16

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その幻のカルヴィーノ講座の後、結局エーコ先生がイタリア人としては初めてこの講義を行うことになった。まずは、カルヴィーノへの哀悼。翻訳者和田氏によると、お互い認めあい尊敬しあう関係であったとか。エーコ先生は小説も書くが、それは長い研究生活の後のお仕事で、元来は研究者。それを今回しみじみとと実感したのだが、いくらエーコ先生が専門的になりすぎないように配慮し、雑談も交えながら講義しても、そこはハーバード、そもそもの下辺レベルが高い。ジョイスやプルーストを読み砕かないとわからないとは云わないまでも、なんせ理論的に攻めてくるので、読み飛ばして再読もしない私には、”読み込む”という行為がないということを認識させられる。私(読者)がどう読もうが、好きに読めばいい、なんて大きな声でいっていると、エーコ先生に不機嫌な顔をされそうである。読者はいかに読むべきかということ、作者がどう読んでほしいと思っているか、と説かれると辛い。経験的読者/モデル読者、経験的作者/モデル作者、テクスト/パラテクスト、と途中から定義がよくわからなくなってきた。

思うに、一流の読み手でもあるエーコ先生の愉しみ方を紹介されているのだろうが、スタートから終わりまでの筋を追うだけの直線コースでは、森の散策にはならないわけで、森の散策はもっと立体的で三次元的なのだ。しかも小説を読む理由は、そのときの快楽だけではなく、虚構の世界の中で読者の過去(そして未来までも)の体験を体系化する能力を養うと云われても困り果てる。作者が伝えたいことを読み解く読者。いやでも、この一つ前に読んだ「年を歴た鰐の話」はナンセンスなものに意味など見出すな、と云われたばかりなのを思い出し、そちらに逃避したくなる。が、それでも本読みの端くれとしては、それもあり、これもあり、こんなものもあり、でフムフムと読了したのである。小説の中、つまり虚構の中での真実と嘘はわかるが、現実社会の真実は、往々にしてとても曖昧で実は虚構だらけで、私たちはその虚構を真実だと思い込まされながら生きているわけだ(ここは「サピエンス全史」にも繋がるものがある)。

さて、この本を読んだ一番の目的は「シオンの議定書」だったが、このシオンの議定書の歴史をかいつまんで話ししているのが最終の第6章だが、かいつまんでも混乱しているということがわかった。少しは何か得るものがあるかと思ったが、「プラハの墓地」の本の方が、ハラハラドキドキがある分まだ分かった気がしたくらいだ。でも未読のエーコ本「フーコーの振り子」はやはり読んでみたい。上下巻になっているとはいえ、文庫化されている。今アマゾンで見たら各巻なんと¥1で買えるということがわかった。さて。。。

年を歴た鰐の話

幻の名訳を完全復刻!
って云われたら、そりゃあ、買うわな。何が幻なのかというと、昭和十六年に櫻井書店から出され、戦後の二十二年に同書店から再刊された名コラムニスト山本氏の若き日の翻訳ということだ。昭和22年以降再刊されなかったのは、山本氏が一時期自らも属していたこの櫻井書店への忠義心であったとか。この山本氏も櫻井書店も私は全く知らなかったが、今回この気骨溢れる出版人の存在をはじめて知った。

4163221905年を歴た鰐の話
レオポール・ショヴォ 山本 夏彦
文藝春秋 2003-09-12

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タイトルと同じ、「年を歴た鰐の話」の他、「のこぎり鮫とトンカチざめ」、「なめくぢ犬と天文學者」の3篇。カバー付きの横開きの本。旧かな使い。ヘタウマのような白黒のイラスト付の絵本と云えば、絵本。なおあとがきの解説は、吉行淳之介に久世光彦に徳岡孝夫。この力の入れようが幻の名訳である所以だ。そして変。山本氏曰く、
ショヴォの作品は元来non senseなので、このnon senseは讀者に一人相撲をとらせ、知らず識らず、讀者の知慧の限界を露呈させる
この変な話しに意味を見出すと、己の馬鹿さが露呈するわけだ。そもそもそこには意味なんてないのよ~~と云われても、馬鹿な読者はやっぱり意味を見出そうとするのだろう。ちょっと知恵のある人なら、意味が欲しくなるだろうが、そこまで知恵がないとかえって、素直にすっきりと味わえるはず。

ピラミッドが建てられた頃から生きているこの年を歴た鰐は、歳のせいでリウマチを患い、満足に餌が取れなくなり、空腹になった鰐はなんと、曾孫を食べてしまう。それに気づいた曾孫の母、即ち孫娘に、
”このひとでなし”
とどやされ、家族の元を離れ、大海にでていく。と、ここが私の今回一番ツボにはまったところ。
”ひとでなし”って云われても、鰐じゃん。。。。山本夏彦のこの翻訳はどこでもかしこでも絶賛されているが、鰐に向かって”ひとでなし!”と云わせるのは、とんと思いつかなんだ。その後鰐は12本足も蛸と友達になり、新鮮な海の幸を毎日運んでくれる優しい蛸の足を、それがあまりにも美味そうだということで、毎夜1本づつ食べてしまい、最後に足を失くした蛸が動けなくなると、ついに頭まで食べてしまう。そしてポツリと云うのだ。
彼は彼女を、ほんとにうまいと思つた。けれども、食べるが否や、にがい涙を流した。
でも鰐は後悔なんて絶対していない(はず)。そして最後は、故郷に戻った鰐が日焼けした真っ赤な身体故に、神として崇められ、毎日生贄として若い娘を与えられる。なんだ、この鰐は結局美味いものを喰い続けて幸せなんだ、因果応報はないのか。いいな。

という調子で「のこぎり鮫とトンカチざめ」 と 「なめくぢ犬と天文學者」も展開されるのだが、笑う手前でちょっと躊躇し、顔が引きつってしまうようなノリだ。グリム童話のようなブラックとは違う。シュールというのともちと違う。変なのよ、兎に角、だからナンセンスと云われて私はホッとした。

プラハの墓地

エーコがなくなってもう2年以上がたつ。「ヌメロ・ゼロ」に続いて、こちらもようやく入手した。

4488010512プラハの墓地 (海外文学セレクション)
ウンベルト・エーコ 橋本 勝雄
東京創元社 2016-02-21

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知の巨人、ウンベルト・エーコ待望の最新刊。ナチスのホロコーストを招いたと言われている、現在では「偽書」とされる『シオン賢者の議定書』。この文書をめぐる、文書偽造家にして稀代の美食家シモーネ・シモニーニの回想録の形をとった本作は、彼以外の登場人物のはほとんどが実在の人物という、19世紀ヨーロッパを舞台に繰り広げられる見事な悪漢小説(ピカレスクロマン)。祖父ゆずりのシモニーニの“ユダヤ人嫌い"が、彼自身の偽書作りの技によって具現化され、世界の歴史をつくりあげてゆく、そのおぞましいほど緊迫感溢れる物語は、現代の差別、レイシズムの発現の構造を映し出す鏡とも言えよう。

時代は19世紀末。この「シオンの議定書」のことを知らないまま読むのもどうかと思い、ネットをみていたが、有名なものほど情報がありすぎてよくわからない、というありがちな結果になった。とはいえ、ぼ~~とながらこの有名な偽書の存在を頭にいれつつ読んでみる。この時代のヨーロッパ史にこれまた疎いというのも悲しいことだが、イタリア統一、パリ・コミューン、ドレフュス事件というヨーロッパを揺るがすような大事件と、その裏で暗躍する組織(フリーメイソン、イエズス会、各国秘密情報組織、ユダヤ人)、てんこ盛り度でいくと、閉じられた場所で展開される殺人の推理劇「薔薇の名前」の方がわかり易いくらいだな。云われてみれば至極当然なのかもしれないが、人は純粋に主義主張でグループを作っているうちはまだいい。フリーメイソンとイエズス会とユダヤ人はきれいな3つの輪に分かれているわけではなく、すべては重なり合っている。エーコ先生の本は、蘊蓄語りにはたまらないのだろう、ネットでググると記事がギョーサンでてくる。ので、細かい話しをそちらを読む方はが賢明と思われる。

偽書「シオン賢者の議定書」をめぐるエピソードはクライマックスだが、この本、どこをとっても胡散臭い人間と悪人と金の亡者しか出てこない。善人がいない。偏見と憎悪の塊ばかりで心優しい人はそれだけで吐き気がするかもしれないが、私はそれほどぞ~~とした気分にはならなかった。吐き気がするほどの偏見と憎悪は実は驚くに値しないからだろうか?実はそれは、いつの時代でも、今の時代でも変わらないからだろうか?偏見と憎悪はデフォルメされているとはいえ、遠慮もなくともすると滑稽でさえある。主人公シモニーニは祖父からユダヤ人嫌いを刷り込まれた人物だが、誰にせよ個人的恨みとか具体的な何かをきっかけにユダヤ人嫌いになったというより、そこには明確な根拠なんてなく、当たり前のようにユダヤ人を憎んでいるようにさえ見える。 そして扇動的な言葉に踊ろされる人々がその憎悪を増幅していく。愚かと云えば愚かだが、今も昔も人々はそうやって戦争をし、策略を巡らし、不毛の陣地取り合戦を繰り返してきた。

偽書や入り組んだ策略に加えて更に話しを面白く(そして複雑に)しているのは、主人公シモニーニの二重人格という設定。古物商のふりをして、偽造屋兼スパイのように活動する彼は、記憶が途切れることがある。その途切れた期間に登場するのが、イエズス会士のピッコラである。二人が、いや2つの人格がそれぞれ紡ぐ手記がこの本の前提にある。シモニーニが綴る手記、その記憶が途切れた時は、ピッコラが登場し、手記を綴る。それは二人の人間が間接的に会話をしている状態だ。それぞれの人格が起こす殺人事件と死体遺棄、立場は違えど、両人に共通するのはユダ人に対する嫌悪。ユダヤに対する罵詈雑言は耐えられた私が、何が一番ぞっとしたかというと、物語の終盤で、修道士ピッコラが薬物のためとはいえ、悪魔の儀式の中でディアナと 性交を持ってしまうのだが、後になって意識が正常になったとき、ピッコラが彼女の中にユダヤの血が流れていることを知ると、逆上して彼女を殺害してしまう。自らがユダヤの血を引き継ぐ子孫を残すなど絶対に許せなかったのである。その嫌悪感からくる怒りが途轍もなく怖かった。曲がりなりにも彼は聖職者だというのに・・・

国家という実は曖昧な集団をまとめ、自分たちのアイデンティティーを意識させるためには共通の敵をつくる。民主主義を利用することで(無知な国民を扇動すれば)独裁制を作り上げることができる。人は信じたいことだけを信じる、それが嘘であろうが、信じたければ信じ、真実であっても信じたくないことは信じない。そして愛より憎しみの方が長続きする。そんな人間の悲しくも愚かな性を利用して偏見と憎しみが助長され、独裁体制は出来上がっていく。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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