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鏡のテオーリア

多田智満子さんと言えば、ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」や、マルセル・シュウォッブの「少年十字軍」などの翻訳でしか私は知らないけれど、硬質で気品溢れる翻訳はこんな文章を書く翻訳家がいるのかとそれだけで敬服してしまった。翻訳家であり詩人であり、西洋文学だけでなく、古今東西のあらゆる書物に精通し、博識だけでなく、さらにそれを土台にした自身の認識と感性とで、孤高の哲学者のような人だったらしい。本人は「あえて言えば、自分は言葉の職人かな」 という言葉を残したらしいけれど、同人の間でも必ずしも評価されたわけではない、謂わば読む人だけが読めばよい ”Happy Few” な作品なんだろう(だから絶版なのか?) それ故「人間の時間を超越している詩人」 「現代日本にもったいない御方」と言われてしまう。跋文は澁澤龍彦氏。何とも豪華な組み合わせ 。
鏡のテオーリア (1977年)
theoria
ギリシャ語のテオーリアはここでは「観照」という言葉があてられている。
テオーリア【theōria】
《眺めることの意》哲学で、永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動。アリストテレスは、これを実践(プラクシス)や制作(ポイエーシス)から区別し、人間の最高の活動とした。観想。

辞典引いたからってわかるもんじゃないんだけどね。。。

鏡のイメージは、それ自身、詩的であって哲学的であり、魔術的であって遊戯的であり、心理的であって物理的であり、神話的であって日常的であり、永遠的であって瞬間的であり、古典的であってデカダン的であるからだ。そして詩人としての智満子さんも、おそらく、この二方向を兼ね備えているのである。
(「鏡のテオーリア」に寄す  澁澤龍彦)


テオーリアの言う見る・眺めるという行為が、視覚的な作業に留まらず、認識する意識にまで高まっていくのが、単なる博識や蘊蓄に留まらない凄さ。私なんぞはHappy Fewにかすりもしなくて、とても彼女の思考についていけない。いくら博識に留まらないといっても、ここまで博識であればそれだけで凡人にはクラクラするほどだし、特に漢詩や日本の古典に対する深い洞察には手も足も出ない。でも結局のところ、知識をいくら詰め込んだところで、その先の想像性や思考がない限りやっぱり薄っぺらなんだろうな。そう思うと、多田智満子さんは私にとってはボルヘスと双璧をなすほどの御仁。

人間は「見る者」であると同時に「見られる者」である。
現代において自分を見るために日常使う鏡から始まり、古代の金属を磨きあげやや屈折し歪んだ画像を映し出した鏡、古来何やら恐れの対象であった鏡、水面に写る自身を見る水鏡、すべてを逆様に映し出す「鏡の国のアリス」の鏡、過激な凸面鏡と温和な平面鏡、さらには自分の過ぎてきた過去を見る車のバックミラー・・・鏡だけでこれだけの思考を巡らす。

最後に、こんなことは本筋じゃないんだろうけどちょとばかり。
Mirror  Marvelous   Admire   Mirage   Miracle
本書ではこれをすべてフランス語⇒ラテン語で説明しているけど、私は(すいませんが)英語で。これらはすべて(見て)驚くこと、驚嘆すること、驚異的なこと、不可思議なこと、という同じ語源の言葉なのだそう。
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コメント

[C140] ただ・・・

静かに拍手するしかなさそうですね。
  • 2011-12-05 23:09
  • さかい@tadoku.org
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[C141] ただただ・・・

はい、今回はそれにてご容赦ください。
  • 2011-12-06 23:32
  • Green
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