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書物史のために

古本カフェにてゲット。晶文社「本の本」シリーズはお気に入りなので買ってみる。
書物史のために書物史のために
(2002/03/31)
宮下 志朗

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宮下志朗氏というのは、「ラブレー周遊記」の著者としてしか存じませんでしたが、フランス文学者にて東京大学の教授(今は引退)、最近では、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の新訳(ちくま文庫)の翻訳もやったとかで、古典文学を読み砕くということが専門らしい。読み砕くというのは、私たちが本を読んであ~だ、こ~だと思いを巡らすのとは訳が違い、今の辞書と首っ引きになっても到底使われていないような言葉・意味を解明・解釈するってことをしないといけないらしい。ということで、何だか途中から大学でxxx学の講義を聴いている気分になってしまった私。アルベルト マングェルの「読書の歴史―あるいは読者の歴史 (叢書Laurus)」とか、「図書館 愛書家の楽園」みたいに、わからなくても目がキラキラしちゃうようなワクワク感にはちょっと欠けるけど、なるほどと思うこともある。

「本」と一口に云ってみても、それは現代における本であって、古代には「書かれたもの」は信頼されておらず、「声」が優位を保っていた。中世にまで遡ってみても、識字率の低さもさることながら、グーテンベルグの発明以前には、書物は恐ろしく貴重なもので写本によってのみ複製が可能。そもそもその時代の書物というのは、主に宗教のためだったから、「声」による伝達、つまり共同体の中で口承伝達されることがあるべき姿だったってことだ。ということで「黙読」という読み方は特殊技能であったらしい。「写本」というのも、ただ書き写すだけだと思っていたけれど、あれは解釈本であり、翻訳本であるという。オリジナルはもちろん手書きだし、それを書写していく過程で誤写が生まれ、写し間違いだと勝手に解釈されると、また違う誤写が生まれる。装丁もフォントも写本する側のアレンジ次第ということで、現在から考えるテクストに対する著者の権利も、それを守る、という意識もなかったそうな。

「本」には、著者が表した「テクスト」と、物体としての「書物」という両側面があるわけで、「テクスト」があればそれは本かと言われると、じゃあ、何で出版社がいるのよ、ということにもなる。単に装丁デザインだけでなく、文字のフォント、大きさ、割り方、見せ方、それが違えば、違う本になる。電子本は極端に云えば、「テクスト」しかないわけで、「テクスト」が「書物」に変身するそこんとこが1つの文化じゃないのかと思うわけで、電子本が隆盛を極めたら、それはある意味、モノとしての「書物」が存在していなかった古代に戻るような感じがしなくもない。
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