Entries

蕗の葉っぱの話し

季節ごとに待ちわびる食材というものがあるが、春の筍と蕗は私にとっての二大巨頭である。以前にもこの筍と蕗ネタで一度記事を書いているが、今日の話しは、蕗の葉っぱの話し。。。

蕗の葉っぱは実に地味だ。茎の部分を食べる人がほとんどであろうと思う。実際に、農協の直売所でさえ、葉っぱが切り落とされて売っている蕗は多い。かくいう私も、葉っぱは苦手で、実家の庭で収穫できていた頃は、葉っぱは少しだけ残して、捨てていたりした。その頃は、茎と葉っぱを同時に一つの鍋で煮ていたわけだが、どうも葉っぱに手が伸びない。で、数年前に気づいたのだな、微妙に味付けを変えるという技に・・・

それまで蕗を煮るときには、酒と醤油のみ。味醂、砂糖などの甘味はないものが好きだった。が、葉っぱというのは、茎以上に苦みがあり、こちらはちょっと甘味を加えて、細かく刻んで佃煮風にしてみた。このちょっとの甘味が劇的な変化を遂げたのだった。本当にちょっとのことなのだが、葉っぱは葉っぱだけ煮ると美味いのだった。蕗好きの云う事なので、欲目があるのは確かだが、でも私にとっては、大きな驚きだった。それ以降、面倒ではあるが、茎と葉っぱは少し味付けを変えて、別々に煮る。そして、とうとう今年に至っては、何だか葉っぱの方が美味しいと思うほどまでになってしまった。

さて、こうなってしまうと問題は、巷では葉っぱが落とされて売っていることが多いということである。葉っぱ付の蕗は少数派も少数派で、2束辛うじて残っているとか、全くないことだってある。開店時刻を狙って一番葉っぱを切り落としそうもない農協直売所にダッシュする、もしくは、ほったらかしの他人さまの庭の蕗をもらってくるしかない。昔は実家の庭からとっていたが、めっきり蕗が出なくなった今では、悔しいが買っている。だから蕗を、伸びて伸びて困る雑草くらいにしか扱っていない他人さまの庭が恨めしいのである。

と、ネットでこんなものまで発見してしまった。蕗の葉を塩漬けにして、おにぎりに巻いたものだ。魅力的過ぎる。美味いに決まっている。週末再び葉っぱ探しをしなくては。。。
蕗の葉のおにぎり

骸骨考

以前に中欧の墓巡りというものに惹かれ読んだ「身体巡礼~ドイツ・オーストリア・チェコ」だったが、イタリア・ポルトガル・フランス編が準備中だということをその後すっかり忘れていた。最近雑誌「考える人」が休刊になったという記事を読んでいたら、このイタリア・ポルトガル・フランス編を見つけてしまった。なんだ、こっそり出ていたのか・・・ 

今月はのっけから私生活だけで息切れしそうだったので、読書が全く進んでいない。本が読めないというのは物理的に読む時間がないわけでなく、読む気分になれない、無理して読んでも目が上滑りする。間の悪いことに、Kindle for iPhoneでイギリス人の書いた、”あーーまさしくイギリス人”みたいな英語本を読み始めていたが、やっぱり難しい。イギリス人ジョークが理解できない。それでも読んでいるが蝸牛のようなスピードになってしまった。こんな時に養老先生の本なら、気持ちが少し晴れるかもしれないと、2冊平行読みしていたら、当たり前だが、こちらの本は早々に読み終えてしまった。

4104160083骸骨考:イタリア・ポルトガル・フランスを歩く
養老 孟司
新潮社 2016-12-22

by G-Tools

失礼ながら申せば、前回の「身体巡礼~ドイツ・オーストリア・チェコ」でもタイトルと内容のズレとでもいうのか、話しはあっちに飛び、こっちに飛び、そして道草を喰った挙げく、元に戻り、そして随所随所で大好きな虫の話しを挟み・・・という構成が、今回はさらにパワーアップされていて、まあ失礼ながら申せば、無茶苦茶である(笑)。書きなぐっているような様相なんだな(雑と云う意味ではないが、我儘し放題にはなっている)。そもそもこの本は、元々雑誌「考える人」の連載であったらしい。前回は私も真面目に感想を書いていたが、それも何だかなあ。。な気分だ。でも途中はハチャメチャに見えて、最後は案外ちゃんと締めている。そして、今になって気づいたが、読了後なんだがハッピーな気持ちになるんだな。適当、いい加減というのは、ちゃんと適当、いい加減にやると、たぶん快適でハッピーになるのかもしれない。そんな無茶苦茶ぶりだが、ネットで書評や紹介なんか眺めていると、みんなくそ真面目に哲学だの、生きるとは?とか書いているから、笑ってしまう。

さて、旅の目的は変わらず墓と骸骨で、イタリア・フランス・ポルトガルの納骨堂を訪ねている。しかし養老先生に積極的な意思はあまり感じられない。過去に訪問した納骨堂を再び訪れても、「覚えていないなあ」。また異様ともいうべき、整然と並べられた沢山の骸骨に囲まれた部屋にいても「特に云うことはない」。ここで問うのは、『意識』というものである。骸骨だから墓だから直接的に生きること、死ぬことをくそ真面目に延々と論じてはいない。

言葉は意識であるという。現代人の悪癖は「なにごとも理解でき、説明可能」だと思うことで、世の中筋が通らないことなど沢山あるが、筋が通っているように見せる、筋を通し続けることは、やがて実際とのかい離を招く。だが、多くの人は世の中は意識的にコントロールできると信じ、これこそが意識の「最悪の癖」なのだと養老先生は云う。自分の頭の中が混沌としていて、意識を定義できないのだが、情報というものは(言葉や出版等)意識から発している。が、意識中心の意識絶対主義の現代で、意識化出来ない感覚=身体が置いてきぼりになっていている。「情報」とは「時間とともに変化しない」もの。いうなれば固定化された過去で、その情報やら法律やらがどれだけ貧困になっているか、意識化出来ない感覚=身体が貧困になれば、意識も貧困になる。言葉が意識なら、言い訳三昧の世界は貧困の極みだね。

上手く書けないけれど、養老先生の云いたいことはだいたいわかる。身体というもの、五感も含め、人間の基本的なこと、食べること眠ること、体験すること、解明できなくとも存在するもの、そういったことを中心に据えると、可笑しな意識で構築されている世の中が少しましになるのかもしれない。

骸骨考って骸骨論じゃあないのね・・・と生きた人間を見て、死んだ人間を解剖して、その後の骨を眺めた果ての、生物としてどんどん弱っている人間の考察(ということか・・・) 書こうと思っていたことがまだあった気がするが、思い出せない。ああ、そうそう、アメリカは誤爆が多すぎるっていう指摘に、私は一票どころか、100票いれたい。

染みる感覚

父の急な入院で動転した今週。忙しかったり、何かいつもと違うことが起こると、私は食べなくなるタイプで、ヤケ喰いという方向には向かわず、食事を飛ばす。

昨日仕事も休んで、朝飯も食べず実家での洗濯・片づけ、買い物、そして入院先病院へ。それが終了して、当座やるべきことが終わったのが11時頃だった。動転から多少立ち直ったのか、贅沢なランチを食べてやろうと思いついた。病院と家の間に絶品のイタリアンレストランがある。ランチで2-3度行っただけだが、小田原でもこんな美味しいイタリアンがあるのだと感動した。11:30ランチスタートで一番に入店した。パスタセット、前菜は(おそらく)地場野菜のサラダ+パン。生野菜より火の通った野菜の方が断然好きだが、ここのサラダはそもそも野菜が美味い。火曜日からろくに食事をしていなった私にとっては、久しぶりの、そして誰かがきちんと作ってくれたまともな食事だった。

野菜を口にした瞬間、身体全体に染みていくような不思議な感じがした。あまりの空腹で胃に染みるというのとは違う。内側からじわっとくるのとも違う。身体の表面を流れるすべての血管から身体の内側に染み込んでいくような感じというのが、近いと思う。トマトソースのパスタも然り。食事中、時々目を閉じて、その染み込む感じをじっと味わいながら、食べてみた。この感覚はおそらく人生初だろうな。心に染みる料理というものはあると思う(おそらく色々な意味で)。でもこの感覚は心よりは明らかに身体に染みたのだな。。。折角なので、パスタセットにドルチェにコーヒーもつけて、ランチは気持ちよく終了。少し元気も出た。食べるということは、大切なことなんだなあ。

昨日は20度くらいまで気温があがり、開花宣言後ピタッと凍り付いていた桜も物凄い勢いで咲きだした日だった。家と病院の間には、小学校が2校、中学校が1校あり、すべてで入学式をやっていた。校舎の前で親子記念撮影の現場も沢山見た。こんなに気持ちのよい入学式などそうそうあるものではない。よかったよかった。自転車で市内を移動しまくった一日だったが、風も心地よい。天気とか風とか緑とか、そういうことも食べることと同じくらい大事なんだなあ。そういうことに助けられ、少し救われた気持ちになるってことを実感した春の一日。来年の春がやってきて、桜が咲いたら、そういえば去年は・・・と思い出すのだろう。

さっき、気付いたこと

これが好きで好きでたまらない・・・という何かがあれば、人生もうそれだけでOKじゃん、と常々思っていた。
でも、それがある人っておそらく少ない。
食べるものがあるだけで有難いと思えとか、仕事があるだけで有難いと思えとか、それは現代ではそうそう通る説教ではないな。

やりたいことを見つけようとしたら、一生かかっても見つからないかもしれない。でも、さっき気づいた(いやホントさっき)。やりたくない事を徹底的にしない。やりたくないことを排除していった先には何かあるかもしれない。私はこっちから行こうかな?

秋の雪

イレーヌ・ネミロフスキーの二冊目は短篇集。
4896424379秋の雪―イレーヌ・ネミロフスキー短篇集
イレーヌ ネミロフスキー Ir`ene N´emirovsky
未知谷 2014-03

by G-Tools

以下、5篇
『舞踏会』
『秋の雪』
『九月の午餐』
『幸福な岸辺』
『腹心の友』


1929年から1941年までに発表された5篇。彼女の作家としての活動期間はほんの10年足らずだったが、長短篇あわせて、20作を超える作品を残しているから、自らの激動の半生を反映させながら、題材は次から次へとほとばしり出ていたのかも知れない。死後、2004年になって発見された『フランス組曲』を契機として、再評価され、むしろ生前より現代の方が評価が高いのだろう。が、ロシア革命を逃れ、フランスでフランス人になろうとカトリックに改宗してまで帰化しようとしたのに、受け入れられなかった挫折も含め、一体何を思って短い人生を過ごしたのかは、日本語で読めるものはあまりない(フランスでは出版されているらしい)。

個人的な一押しは「秋の雪」。ロシア(ウクライナ?)の地からパリへ逃れた裕福な一家に代々乳母として仕えた女性の話し。狭くて暑くて風通しの悪いアパートで老いてゆく彼女が、故国を思い出し、その寒さを焦がれながら雪を待つシーンが残像に残るよう。

2冊完了して思うのは、人物の心情描写の細かさ、それは物語の中で相反する人物の双方を偏ることなく、客観的に平等に描いている凄さだと思う。が、その心情描写の細かさは、読んでいて時々こちらの神経が痛く、辛くなるくらいで、readabilityが高いが故に止めることもできず、かなり精神的にはやられる。「舞踏会」然り、「腹心の友」然り。痛さには個人差はあるだろうけれど、このreadabilityの高さは、意図せずしてエンタテイメント要素も豊富で、読者に満足感を与えることは間違いないんだろうな。

作家デビューを果たし、評判をとった『ダヴィッド・ゴルデル』と、『フランス組曲』までは、読むべきかしらん、と思いながら、アマゾンを眺めているが、高止まりの古本価格に現在足止めを食っている。

クリロフ事件

また未知谷のTwitterに踊らされてしまった。
イレーヌ・ネミロフスキー、Irene Nemirovsky (1903~1942) 旧ロシア帝国、現在のウクライナのキエフ生まれ。10代前半、革命時パリに亡命。42年にアウシュヴィッツ収容所にて死去。彼女の死後60年以上経過してから、遺品の中から発見された未完の大作『フランス組曲』が有名。この本は聞いたことがあった。ところでこの表紙の写真はどこなのだろう?

4896424409クリロフ事件
イレーヌ ネミロフスキー Ir`ene N´emirovsky
未知谷 2014-05

by G-Tools

帝政末期のロシア、革命家でテロリストのレオンMが遺した回想録という設定。レオンの暗殺ターゲットとなったのは、教育相クリロフ。残忍で冷酷な権力者であったクリロフは「シャチ」というあだ名を持つトップクラスの高官である。レオンはシベリアで政治犯の両親の元に生まれ、父の死後スイスへ移住、10歳で母も亡くなり、「革命委員会」の手により育てられた”生まれついての党員”だった。委員会からの指令を受けて、サンクトペテルブルクにあるクリロフの家に身分を隠し、医師として住み込み始める。

幼い頃から革命家組織で生きてきたクリロフは、抽象的な世界「ガラスの檻」で生きてきた。主義や情熱で革命に身をささげたわけではなく、その世界しか知らずに育った。権力欲というものはあるのだが、革命そのものに対しては醒めた目を持っている。クリロフは肝臓癌を患っており、激痛に耐えながら職務を続けている。彼の妻(2番目)は元酒場の歌手をしていたため、皇帝夫妻から嫌悪と侮蔑を受けているにも関わらず、一途に愛し続けている。敬虔で生真面目で不器用、時として臆病な顔をのぞかせるクリロフと接する内に、レオンは「初めて人間というものを見た」と云わしめるほどのシンパシーを感じ始める。しかしそのシンパシーとて、愛憎入り混じる複雑な感情だ。クリロフの冷酷さとどうしようもないほどの人間臭さの両方が無理なく描写されているが、帝政末期ロシアを舞台にした壮大な大河ドラマに仕立てない、というのが、ネミロフスキーのスタイルなのかもしれない。

やがて権力の座から引きずり降ろされたクリロフだが、それでも革命委員会はレオンに暗殺決行を命じた。暗殺中止を叫ぶレオンの声は聞き届けられず、暗殺は決行される。躊躇したレオンに代わり、実際に手を下したのは、彼の同僚だが、彼女がやっていなければ、自分がやっていただけだ。。。

150ページ足らずの短い話しだったし、短いとはいえ、ずっと続く緊張感とストーリーの面白さであっという間に読める(途中でやめたくないタイプの本)。初イレーヌ ネミロフスキーは十分楽しめたし、もう少し読んでみたいと思わせるが、まだ好きも嫌いもよくわからないのが本音。難を云えば、ちょっとキレイにまとまりすぎてる。『フランス組曲』は映画になったが、この『クリロフ事件』も勝手に脳内映像が浮かんでくる本だ。さて、もう一冊仕入れてみたので、次もイレーヌ ネミロフスキー だ。

一千一秒物語

ということで、すかさず稲垣足穂の「一千一秒物語」に行った。新潮文庫だが、私が読んだ版はこれじゃない。
410108601X一千一秒物語 (新潮文庫)
稲垣 足穂
新潮社 1969-12-29

by G-Tools

一千一秒物語 こっちです。

当たり前の話だが、ガイブンばっかり読んでいるとネット検索してもヒットしないものはホントにヒットしなくて、そんなに売れていないのかと心配になるが、日本文学なんて読み切れないほどヒットする。初めて読んだ稲垣足穂だけど、ちょっとググるだけで半生がだいたいわかってくる。ということで知った稲垣足穂の生涯だが、文壇に背を向ける人というのは、たくさんいたのだろうけれど、彼の場合は反骨精神というより、「他人に関心を持つのを恥と心得ている」といい、実際に彼ほど徹底的に確固たる信念を貫いた作家はいないのではないかと思えてくる。でも逸話や発言を書いていると面白くてやめられないので、本作へ。。。

「一千一秒物語」
「黄漠奇聞」
「チョコレット」
「天体嗜好症」
「星を売る店」
「弥勒」
「彼等」
「美のはかなさ」
「A感覚とV感覚」


段々難解になっていく構成。「A感覚とV感覚」というちょっとキワドイ美少年論は楽しめるものの、「彼等」や「美のはかなさ」はついてゆけず、完全に流してしまった。でもそれ以前の「一千一秒物語」から「弥勒」までは、夢中になって読ませていただいた。確かに私好みだ。ガイブンばっかりの私が読んでも、この無国籍、時代を感じさせないボーダーレス感は好みだ。日本的情緒や湿度や人肌の温度がない。鉱物的。久生十蘭を読むと、日本語というものはかくも美しいのかと驚くが、足穂を読むと日本語はかくも無機質になるうるのかと驚く。

何はともあれ、「一千一秒物語」。松岡正剛氏曰く、”ハイパーコント”。稲垣足穂が17歳くらいからちょこちょこと書いていたという、ショートショートの上をいく数行コントだ。そのシュールさ、クールさ、似非ものの月と星と人がドタバタを演じるその世界は、小さな舞台の展開を思い描いてしまう。機械仕掛けの月や星が、予測不能にかっとぶ。すべてが似非の人工物。その短い奇妙な話しに最初は驚くが、これってきっと削って削ってこれ以上は削れないというところまで、削った結果なのかなあ、とそんなことを思わせる。ニヤッと笑ってしまったりすることも多々ある。シュールでクールなくせにチャーミングでもある。きっと何度読み返しても楽しいだろうなあ。深読みなんてしなければ、子供に読み聞かせたっていいぞ。

「黄漠奇聞」は古代の王国の物語。神を恐れぬ、神を超えようとした王の物語。三日月を砂漠の果てまで追いかけていき撃ち落とすと、彼の王国は砂漠の中に跡形もなく消えていた。道徳的な比喩がありそうで、こんな話しって他にもありそうで、でも足穂の世界は何かがどこか違っていた。月は満月ではなく、三日月なのね・・・

「チョコレット」も童話風。チョコレートに入るように誘導された星の精。鉱物のように固くなりどうにも割れなくなったチョコレットを鍛冶屋に持っていき、叩き割ってしまうと、爆発して星の精は宇宙に飛んでいく。これも中編だが、ハイパーコントだ。

稲垣足穂は自分が生涯かけて書くものは『一千一秒物語』の脚注にすぎない、と云ったという。初めて読んだ者にこの意味は全くわからない。わからないが、折角なので『一千一秒物語』から一つだけ。「黒猫のしっぽを切った話」
ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン!と黄色い煙になってしまった 頭の上でキャッ!という声がした 窓をあけると、尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

Calendar

<
>
- - - - - - -
1 2 3 4 5 67
8 9 10 11 12 1314
15 16 17 18 19 2021
22 23 24 25 26 2728
29 30 31 - - - -

全記事

フリーエリア

フリーエリア