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ペガーナの神々

「二壜の調味料」を読んで気づいた、ダンセイニといえば、これ!というのが、「ペガーナの神々」らしいので、早速。翻訳はあの荒俣宏さん。ただTVに出ているオジサンではないことは知っていたけれど、この独特のファンタジーに心酔して日本語に作り上げるということは、尋常じゃない。原文がどうであったかは定かではないけれど、ダンセイニの世界を表現することは単なる言葉/翻訳技術の問題ではないと思う。

415020005Xペガーナの神々 (ハヤカワ文庫FT)
ロード ダンセイニ S. H. Sime
早川書房 1979-03-13

by G-Tools

この世が始まる前に〈宿命〉と〈偶然〉が賭けをして、その勝者がマアナ=ユウド=スウシャイに話しかけた――「わしのために神々を創ってもらおう」。こうして創られた神々が、手なぐさみに〈世界〉を創り、人間を創った……。

実は、半分までたどり着いたところでもう一度最初から読み直した。小難しい話しではないのだろうが、ダンセイニの世界に全然ついていけなかった。彼の故郷アイルランドのケルト神話が下敷きになっているらしいが、ケルト神話をググったところで何の役にも立たなかった。キリスト教的世界観と八百万の神を持つ日本の神話を頭から一旦取り外さないとダメだと思いながら、どうにも変な既成概念が邪魔をする。ということで、仕切り直したわけだ。

マアナ=ユウド=スウシャイはヒエラルキーのトップにいることはわかるが、彼(も彼女もないんだろうなあ)は、自らが作り出したスカアルの太鼓の音を背に眠りについてしまう。マアナの眠りは、スカアルの太鼓の音が止まる時まで続く、つまりスカアルの太鼓の音が鳴りやんだとき、終末を迎える。マアナ=ユウド=スウシャイを目覚めさせないよう、声は使わず、手で話をする。この世は(人の世というものは)マアナ=ユウド=スウシャイの一瞬の夢の出来事で、夢から覚めたら世界は終わる。そしてまたサイコロを振るような曖昧さで、世界が始まる。嗚呼、私の想像力を超えている。そもそも初めが、”この世の始まる前”のぼんやりとした薄明りの情景で、そこから曖昧さが始まっているではないか。

マアナ=ユウド=スウシャイがペガーナの小さき神々を作り、どうもそのヒエラルキーの下に地霊たちいて、人間の預言者がいて、地球上に生きる普通の人間がいるらしい。で、マアナ=ユウド=スウシャイに神を作れと云った、《宿命》と《偶然》って何なのだろう?マアナ=ユウド=スウシャイは眠っているので、物語にはほとんど登場しない。ペガーナの小さき神々にしても、人間臭さ(?!)もキャラクターもなく、ぼんやりとしている。ぺガーナの神々、世界をつくり、生や死や時を司り、そして時は常に中心にあり、その前にも後ろにも同じものがある。人の世界にとって永遠とも思われる時間は、神々の世界においては、一瞬の戯れ時間に過ぎない。万物に宿る神をおあしますここ日本の神様は、どうも人間臭いが(七福神を今、頭に思い描いている)、ぺガーナの世界において、人と神の間には絶対的な隔絶がある。そしてマアナ=ユウド=スウシャイと彼がつくった小さき神々たちの間にも絶対的な隔絶がある。人々は神々たちに祈りを捧げるが、常にそれはマアナ=ユウド=スウシャイを除く、神々たちへの祈りだ。

日常の些末なことに気を病んでいるような時、この世界も地球も宇宙も超越した原始の物語は、ふうーと力を抜かせてくれる。ちっぽけな人間でもいいのかも知れないなあと。

稲垣足穂がダンセイニに触発されて「一千一秒物語」を書いたという。そういえばこの本、家にあった。知り合いが「あなたが好きそうな本」だと云って押し付けたが、昔の新潮文庫で、黄ばみもさることながら、字が小さくて敬遠していた。が、こんな繋がりを無駄にしてはいけないな、と思いつつ、その古い古い(でも昭和40年代刊行)の文庫本を手にしてみた。 定価¥160だって。今文庫本といえども、¥1,000位するよなあ、と感慨にふけってみた(それがオチか?)

新作 lemon curd

レモンカードはどうもイギリスの食べ物らしい。かく云う私もイギリスで知ったのだが、ジャムとの違いは、卵やバターを加えてクリームになっているところ。パンにうすーく塗って、軽くトーストして食す(この食べ方以外知らなかった)。日本で買えるのは、多くは輸入品だが、チト高い(1ビン¥1,000位?) どうも簡単に作れるらしいというので、作ってみたら、あれ、案外簡単だった。

lemoncurd2 lemoncurd1

驚きは簡単だったことではなく、その味の方。濃厚さ、レモンの香り、いやはや既製品って何なのよ!と思う位の美味さじゃないか。。。ジャムもそうだが、家庭で手作りするような贅沢さで作ったら、相当にお高いものになることはわかるが、レモンカードの格差はジャムの格差ではないな。

レモンの皮:ガリガリとすりおろす (なので、無農薬レモンを使用)
レモンを絞ったジュース
バター:レモン1個につき50g
全卵:レモン1個につき1個
砂糖:適当(笑)
これで瓶1個分くらいになる。否、瓶1個分にしかならない。そりゃあ、濃厚になるわけだ。栄養?カロリーも高いだろうな。が、美味い、両目を引ん剝くくらい美味い。小田原は柑橘類が取れるので、レモンなんて安く手に入る。無農薬を探すのもそれほど大変じゃない。ちょっと見た目の悪いものをジュース用と云って、大量に売っていたりする土地だからこそのレモンカードだ。

さて、早速トーストにしてみたが、美味すぎてトーストにすると魅力が薄れるような気がする。再びペロッと舐めてみる。これはヨーグルトとかアイスクリーム(100円アイスのような安いアイスがいいかも)と一緒に食べたらよさそうだ。

ということで、10倍希釈の既製品に¥1,000をはたくことは今後もうないと思われる。

深い川

ホセ・マリア アルゲダス は初。ペルーの作家でインディオの言葉、ケチュア語を活かしてインディオの世界を描いた作家だとのこと。

4773893109深い川 (ラテンアメリカ文学選集 8)
ホセ・マリア アルゲダス Jose Maria Arguedas
現代企画室 1993-12

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両親は白人でありながら、早くに母親を亡くしたホセ・マリア アルゲダス は継母や義兄と上手くいかず、使用人のインディオ達の中で暮らし、彼らに囲まれて育った。そして不良の義兄に強姦の現場の見張り役をやらされるなど、継母や義兄との関係はホセ・マリア アルゲダス 少年の精神を痛めつけ、晩年までそのトラウマが残ったということだ。そんな関係に耐えられず家を飛び出した少年はインディオの村で暮らし、13歳で寄宿学校に入学する。彼の生涯については、あとがきで語られているが、それは読んでいるだけで、心が痛くなるような話だった。そしてこの『深い川』を読むと、その人生を抜きにしてこの本は語られれないし、寄宿学校での実際の生活を土台として書かれていることもよくわかる。『深い川』に登場する孤独な少年エルネストは、ホセ・マリア アルゲダス の分身だ。

ラテンアメリカも白人と原住民、富める者と貧しきものの格差を抜きには語れない。いままであまり意識して来なかったが、所謂”ラテンアメリカ文学のブームの中心になったのは、そこそこのインテリでそこそこの中産階級で、だいたい白人で、ヨーロッパ大陸との繋がり、スペイン語で作品を書き、だからこそ世界の中のラテンアメリカを主張できたのかもしれない。その功績は大きいし、それはそれで素晴らしことではある。私が今まで読んできたラテンアメリカ文学は、前衛的で幻想的で、豊かで自由に時や場所を飛び越え、もちろん彼らだって混血文化のラテンアメリカの現実を描いたし、アイデンティティーへの自問もした。でも、そんな今までのラテンアメリカとは、ホセ・マリア アルゲダスは少し違う世界にいるような気がする。

大きなエピソードは、塩を巡る暴動とチフスの蔓延という事件だが、その狭間で、”白痴”と呼ばれている知的障害の少女と寄宿生たちの性的遊戯や、神父とのやりとり、そして大きく占めるのは、エルネスト少年が描くアンディスの風景と、キリスト教世界と対比するように描かれるインディオたちの自然への畏敬だ。これらはリアリティーと呼べるほど、私には実感はないものなのだが、マジックリアリズムと呼んではいけないような物悲しさだけはひしひしと伝わってくる。プリミティブなものの残酷さ。少年が繊細で感受性が豊かなだけに、その危うさは痛いほどだ。

インディオや黒人に対する偏見は、私が想像する以上に強いものがあるはずなので、エルネスト少年すなわちホセ・マリア アルゲダス自身が、白人でありながらインディオに囲まれ、インディオの側に立った人間として生きていくということは、途轍もない偏見と超えることは絶対に不可能な別別の世界で生きるということなんだろう。彼は58歳でピストル自殺をしたという。生涯病んだ精神が回復することはなかった。異文化の狭間からずっと逃れられない人生だったのだろうか?

Rhapsody in Blue

ここ数日、なぜか頭の中を「Rhapsody in Blue」がグルグルと回っている。難しいことはよくわからないが、とにかく好きなのである。で、どこの楽団で誰が指揮しているのかも覚えていないが、CDだって持っている。

1920年代に作曲されたGeorge Gershwinの名作だが、今でこそクラシックのカテゴリーに入るのだろうが、当時はジャズとクラシックを融合させた画期的な1曲だった。素人だから音楽的な説明は全然できないが、今聴いたってRhapsody in Blueは立派に変だ(笑)。ド素人的にいうと;
テンポがコロコロ変わる
何拍子だかよくわかんない
長調だか短調だかよくわかんない
リズムが変調的で、決して行進はできない

George Gershwinという名前を初めて知ったのは、中学か高校の英語の教科書だった(内容の記憶は全くなし)。子供ながらに何だかアメリカ人ぽくない苗字だとは気づいたが、彼はアメリカ在住のロシア系ユダヤ人だった。次に遭遇したのは、Woody Allenの映画、『Manhattan』 だった。日本公開は1980年だったらしいので、高校生の時に見たことになる。ウディ・アレンにダイアン・キートンという黄金コンピに、マリエル・ヘミングウェイや映画に出始めの頃のメリル・ストリープなんかもいた。筋はとんと忘れたが、Rhapsody in BlueをバックにモノクロのNYはマンハッタンの街が全面を彩る(モノクロ映画だけど)。このマンハッタンは鮮烈だった。もっとも社会人になってNYにいったら、東京みたいな街だったけど。

その後CMやドラマで頻繁に使われるようになったRhapsody in Blueだが、きっかけはこの映画だったのかもしれない。偏愛しているので、これが流れるだけでどんなCMでもドラマでも何故かステキに見えるという幻想機能がある。

George Gershwinは早熟の天才でもなんだもなかった。貧しい一家でピアノを触れたのも12-3歳になってからだという。彼のキャリアはポピュラーソング畑から始まっている。そもそもオーケストラの知識も乏しいまま「Rhapsody in Blue」を作ってしまったらしい。

先ほど「Rhapsody in Blue」をググっていたが、私にとってはどうでもいいことばかりがヒットする。使われたCMやドラマ、Youtube、楽譜、プロによる解説だの解釈、CDネット販売サイト、本の感想ってのはあるが、クラシック音楽の感想ってのはないのか・・・Rhapsody in Blueはやっぱりマンハッタンの情景が即座に頭に浮かぶ。それは下から見上げた摩天楼とその狭間の空で、道路から湧き上がるスチーム蒸気に煙り、ビルの谷間を車が駆け抜ける、そこは大都会でありながら、どこか異国情緒が漂い、庶民の日常の匂いがする。が、とにかく下から上へ向かっている、うん、これがすべてだ。

褒めちぎったRhapsody in Blueだが、これがあまりに好きすぎて、George Gershwinの他の曲には実はとんと興味がないのである。

ホーソーン短篇小説集

先日「緋文字」を読んだときに、未読棚にはこんな文庫本があったことを思い出した。緋文字に至るまでのホーソーン歴の方が圧倒的にインパクトが強くて、緋文字で初めて、ホーソーンてそもそも・・・を知ったのだった。で、よくよく気づくと、この短篇集はかなりダブリがあったが、まあ、気にせずあらためてホーソーンに取り組もう(だって、読んだそばから忘れちゃうし)
4003230434ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)
ホーソーン 坂下 昇
岩波書店 1993-07-16

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僕の親戚、メイジャ・モリヌー
ヒギンボザム氏の意外な破局
ヤング・グッドマン・ブラウン
ウェークフィールド
白の老嬢
牧師の黒のベール
石の心の男
デーヴィッド・スワン
ドゥラウンの木像
雪少女
大いなる岩の顔
フェザートップ
アリス・ドーンの訴え


人面の大岩 (バベルの図書館 3)  で読んだものとそこそこだぶっていた。そして意図せずして、再読しない私が、ウェークフィールドだけは、3度目の再読になっていた。 私のせいなのか、翻訳のせいなのか、何だかちょっと味わいが違って感じるなあ。

「緋文字」を読むまでは、ホーソーンのバックグランドにはとんと興味がなく、ちょっと暗くて幻想的なアメリカの古典くらいにしか思っていなかった。でも結構面白く読んでいた。「緋文字」卒になった今、改めてホーソーンを読んだら、彼の生い立ち抜きにして、やっぱりホーソーンは語れないのかもしれないと思えてきた。ボストン近郊セイレムに生まれ育ったホーソーンの先祖は、忌まわしい魔女裁判に関わって(裁く側)いたという歴史から、彼は生涯逃れれることはなかったのだろう。この短篇集は「緋文字」より以前、若かりし頃に書き溜めた短篇だというが、そのセイレム色が嫌というほど、溢れている。そうか、こんなだったのか・・・というのが、新たなる発見になった1冊だった。初期ピューリタニズムには、アメリカ的な”富と勤勉のピューリタニズム”とは程遠い、ユートピアニズムとテロリズムが表裏一体となった闇の歴史だったという。厳格な信条は、異端を許さない排他性があったし、信条に反するものを隠すことで、かえって捻じれた人間性を生むことにもなる。

そう、どの短篇もピューリタニズムが満載だ。でもホーソーンの凄いところは、そこからさらに純粋に物語の面白さがあるってところだ。緋文字が出版されたのが44歳くらいで、それ以前の20年間で100篇もの短篇を書いている。早熟の天才だ。天才ぶりというより、その若さで、この構成でこの不穏な空気の漂う作品を書き上げていったという精神構造の方が興味深い。幻想的で美しいのに、裏には必ず悪意が潜んでいるような感じなんだな。

さて、下はボルヘス編纂の「バベルの図書館 - ナサニエル ホーソーン,」からの引用。
彼が死んだのは1864年春の、ニューハンプシャーの山中でのことである。彼が夢想し、その死によって完成または消滅した物語を想像してみることをわれわれに禁じているものは何もない。だがそれはそれとして、彼の全生涯は、ひとつらなりの夢であった。 
ボルヘスの言葉を理解できるなど、100年早いが、今回この短篇集を開きながら、改めて、「バベルの図書館」の方もパラパラとめくり、そしてボルヘスによる序文を読み直してみた。3回は読んだ、でも、最後のボルヘスの言葉が全然わからない。ホーソーンが夢想していたものって何なのだろう??

字余りなんだよなぁ・・・

本日村上春樹氏の新作『騎士団長殺し』が目出度く、そして大々的に発売になった。喰わず嫌いを標榜する私が、大ベストセラー作家なんて恥ずかしくて読めない(笑)。と云いつつも、1980年代くらいまでの彼の作品は読んでいる、でその後ストップ。今後買ってまでは読まないな、でもタダで読めるならこっそり読んでしまうかもしれない。

小田原駅の駅ビルの本屋にちょっと立ち寄ったら、いきなり正面の平台が全部『騎士団長殺し』だった。そんなもんだろうから、そこには驚かなかったが、開店時間を繰り上げて発売を開始したなんていう東京の本屋さんのニュースは、やっぱりそれは東京だけでしょ・・・小田原だったら今日でも明日でも、問題なく買えますよーーーとすっかり地方都市の人間らしい感想をもった。

確かに今どき初版130万部、さほど宣伝も不要で置けば売れる本なんて、出版社と書店が狂気するのももっともだ。私が手に取る本なんて、まあせいぜい2000部ってとこ。新刊書店に並ばぬ本も多々ある。何でも『騎士団長殺し』の大量出版のため、他の本が通常には配達できないなんていう、とんだとばっちりまであるそうな。。。作家本人の意向は謎だけれど、村上氏はこのお祭り騒ぎには関心はないのだろうか?

と、私が云いたいのはそんなことじゃない。
騎士団長殺し ⇒ きしだんちょうごろし
なんだか云い難い。要は字余りなんだな。
騎士団殺し ⇒ きしだんごろし これで7字でスッキリする。
日本語はやっぱり七五調のリズムがいいと思うんだけれど、そのあたりを村上氏は考えなかったのだろうか?

きしだんちょうごろし・・・ やっぱり字余りだ。村上氏の新作のニュースが出てからずっとこれが云いたかった。
字余りなんだよなぁ・・・

電子レンジ考

あっという間にブログを書き始めて6年が経とうとしている。「日常」というカテゴリーは既にあって、ここには、食べ物ネタが多いが、あくまで日常の切り取りを入れている。最近、本以外にも、漠然ともやもやと、脳みその中で蠢く声を書いてもいいかなと思えてきて、新たなカテゴリーを作ってみた。名付けて『雑記にもならぬ、雑記』 誰に語るというものでもないのは、ブログ開始から変わってはいない。あくまで自分に向かって書いているのだが、書くことで、もやもやが少し晴れることもある。
で、栄えある第一回目が、しょぼいがそれはまあ、ご愛敬というもんだ。

お昼は自前のお弁当だ。残り物整理に丁度いい。もちろん安上がり。
今更気づいたのだが、最近会社にだって電子レンジくらいある。買ってきたお弁当を温めたり、自前弁当を温めたり、揚句にレンジでチンする加工品をチンしてお昼ごはんにしたり、皆さま、電子レンジを抜きにしてお昼ご飯は食べられないようで、電子レンジ待ちという状況も時折発生している。現代の食生活は電子レンジさえあれば、大概のものは食べられる。

さて家でも電子レンジはバンバン使う私だが、なぜかお弁当は温めて食べない。理由は私のお弁当箱がステンレスで、電子レンジ不可なのよね。そんなことまで考えて、お弁当箱を買わなかったよ。でも、例えプラスチックのお弁当箱を持っていても、きっと温めなかっただろうなと思う。なぜ?いやあ、なぜだろう?

最近コンビニのおにぎりや果ては調理パン/菓子パンまで、”温めますか?”と聞かれることがあるらしい。まあ、温めれば美味しくなることも事実なのだし、炊き立てご飯のお握りは確かに美味い。惣菜や弁当まではいい、でもおにぎりや菓子パンはやっぱり私は温めない。なぜ?いやあ、なぜだろう?

電子レンジが世の中に普及したころは、私はもう一端(!)の社会人だった。学生時代のお弁当は当然冷たいものだった。お握り然り、菓子パン然り。家やレストラン以外で食べるものは、冷たくて普通だった。温かくないからこそ、そこには一杯工夫があった。冷めても美味しいもの、味はちょっと濃いめがいい、夏は傷まないように冷ましてから持ってくる、梅干しを入れる、傷みそうなものは避ける、その他色々。。。お握りは携帯食だったから、冷えても美味しい具と塩で殺菌とプラスアルファの味をつける。今の世の中多分、こういった工夫をしなくても、もういいんだろうなあ。惣菜だって冷めても美味しい味付けなんてしなくていいのだろうし、梅干しという天然防腐剤も不要になりかけている。

でも、私はいまだにお昼のお弁当だけは、その現代の風潮に逆らおうと思っている。私のお弁当には絶対梅干しが入っていて、佃煮や漬物もあれば入っていて、冷めたご飯の上で燦然と輝くのだなあ。残り物を詰めているだけの自分のお弁当だから、ハズレの日も多いけれど、ああ、このおかず冷えても美味しい!というヒット商品ができると、そりゃあ、嬉しいもんだ。

時代錯誤だろうな。いやはや、私も歳をとったもんだ。でも、お弁当は今後も温めないよ。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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