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play it by ear

この「英語のこと」のカテゴリーはすっかりご無沙汰。
英語本も時々読むし、仕事でも使うけど、仕事で使う英語は仕事が変わらないと、新しいものにはなかなかお目にかかれない。本はわからないければ読み飛ばせばいいと思っているので、記憶に残らない限り覚えない。

と、最近久しぶりにそれ!ってものにお目にかかった。
Play it by ear
これは、ネイティブ(カナダ人)からのメールにあった。あーでもない、こーでもない、まあPlay it by ear でいくか!とこんな感じ。

Oxford dictioneryのサイトになんか気の利いたこと(笑)でも書いてあるかと思ったら、特段なかった。解り易そうな例文をひとつ。
‘We haven't got any plans as yet, and we don't know when the next thing will be and we're just kind of playing it by ear.’

イディオムだの(学校英語でいうところの)熟語だのというのは、まァあるっていえばあるんだけど、実際に使われているのかとか、今じゃ使われないとか、聞いたことはあるけど、実際にあまり使わないよね~~というのは、”生”に遭遇しないとわからない。だから、日本語のこの手のサイトの云うことはほとんどムシしている私。。第一、便利なイディオムって云われたところで、自分でつかわなければ便利じゃないし。

さ、早くつかいたいな、これ、Play it by ear! 私の精神構造にもマッチしている気がするし。

パラダイス・モーテル

ネットで評判をみているとすこぶるよい。喰わず嫌いの血が騒いでしまいそうだ。

4488070698パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)
エリック・マコーマック 増田 まもる
東京創元社 2011-11-30

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長い三十年間の失踪の後に帰宅し、死の床に伏していた祖父が語ったのは、ある一家の奇怪で悲惨な事件だった。一家の四人の兄妹は、医者である父親に殺された母親のバラバラにされた体の一部を、父親自身の手でそれぞれの体に埋め込まれたという。四人のその後の驚きに満ちた人生とそれを語る人々のシュールでグロテスクな物語。ポストモダン小説を語る上で、欠くことのできない傑作。マコーマックの騙りの魔術の出発点。解説= 柴田元幸

ポストモダン小説って何?と思いながら、これまたネットでつらつら調べていたが、とんとわからなった。ポストモダン小説にカテゴライズされる作家たちを見ていたら、時代だけ区切れば私が読むような人たちってみなポストモダンなのか?とますますわからなくなった。あまり最近の英米作家の作品は読まないが、Paul Austerや(初期作品しか読んでいないが)村上春樹氏の路線に近いか?最近よんだ「異形の愛」も路線としては似ている気がする。決してグロテスクなことがウリではないが、殺害された母親の遺体を切り刻んで、子供たちの体内に埋めるという発想は、グロを通り越してシュールだな。が、読みやすいし、飽きずに最後まで一気にいける面白さはたっぷりある。

物語は、主人公が”パラダイス・モーテル”に滞在し、そこで海を眺めている独白から始まり、そして最後も”パラダイス・モーテル”で終わる。正確に云えば、最初と全く同じ場面で、物語は閉じる。祖父がパタゴニアで聞いた話を死に際に孫である主人公に伝え、その後、大人になった主人公は、身体の一部を埋め込まれたマッケンジー一家の4人の子供たちの一人ひとりのその後の人生を偶然(あまりにも)の出会いにより辿ることになる。4人の子供らの数奇な運命とその死様、妙に肉体描写が生々しい割には、血の通った温かさはなく、とても冷たいホラー映画のようだ。

最後のオチについては、賛否両論あるみたいだが、私は否の方かなあ。ポストモダン小説なので(笑)、通常の起承転結を期待してはいけないのかもしれないが、読者に委ねられたオチの意味は、作者にとってもどうにでも解釈してくれて構わないのだと、ポストモダン小説なので(笑)、私は理解している。が、すべては砂上の楼閣のごとく、サラサラと流れてしまったようでちょっと残念。まあ、最後まで読んでみると、確かに主人公以外の登場人物はみな幽霊のようであまり実態が感じられない。いや、主人公それ自体も幽霊みたいだ。虚実の境目を追求しないのがポストモダン小説(笑)。

それでも個々の子供たち4人の物語はそれぞれ、興味深く面白い。特に「自己喪失者研究所」なる一種の精神治療施設は、医者が代わりのペルソナを作り、それを新たな記憶として埋め込むというのが好き。そうか・・・・ 私の解釈はこうだな。
パラダイス・モーテルで佇む主人公がいるのは、実は自己喪失者研究所であり、主人公は自己と記憶を失っており、彼のために新たに作られた記憶が、このマッケンジー一家の物語で、最後に登場する作家になった一家の長男が、実は主人公であった。

と喰わず嫌いを気取ってみたが、その実エリック・マコーマックの別の作品を既にポチッたのである。

検死審問―インクエスト

「悪党どものお楽しみ 」に続き、おそらく一番有名と思われるPercival Wilde の代表作を読んでみた。

4488274048検死審問―インクエスト (創元推理文庫)
パーシヴァル ワイルド Percival Wilde
東京創元社 2008-02

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ひと昔前の方だけど、本当に古めかしさがない。だから江戸川乱歩が好きだったと云われても、何だか時代が上手く噛み合わないような不思議な気持ちになる。今回は会話形式の部分と、供述調書の部分が組み合わされた構造。劇作家故なのか、こういう構成がホントに上手いなあと思う。

古き良き時代のニューイングランドでの検死審問の一部始終。売れっ子の老女流作家の誕生日に集まった面々、出版関係、親族、そして使用人たち。そこで起きる殺人事件。その事件にリー・スローカム閣下と陪審員たちが解明に挑む。事件とは関係のない田舎の陪審員たちの姿も可笑しいし、関係ないとはいえ、それがあることで冷たい法廷劇ではなく、何ともユーモラスな雰囲気を醸し出す。最後のどんでん返し、がさらにどんでん返しされ、至極気持ちのよい終了の仕方だ。最後まで読むと、いままでの脱線も含めた、エピソードや人物描写に実は意味があったんだと気づく (気づいてもう一度読むと、きっと面白いのだろう・・・) 読めば読むほど、作者が張った伏線にさらに気づく、ってなことも起きそうだ。

登場人物は若干多いが、AはBをこう語り、しかしCはBをこう語る、一方、BはCをこう語り、AはCをこう語る・・・という視点がくるくる変わっていく様も面白い。検視官もゆるゆるに自由に陪審員たちに喋らせる。検死審問といいながら、死体は登場せず、審議をダラダラと長引かせるのは、日当を稼ぐため。なんだこれ・・・そもそも本の出だしは、地元の芝刈り人の処世訓だったりする。売れっ子女流作家を三文小説とけなす評論家の話しも、当の女流作家が推理小説なんて認めないと発言させてみたり、小さいが洒落が一杯で、クスクスと笑える。

Percival Wilde 、上手いです!

An Artist of the Floating World

悔しいが流行りものに手をだしてしまった。読んだのはKindle for iPhone. だから、この”如何にも”な表紙を見たときは、クスッと笑ってしまった。こういう方が売上がいいんだろうな。「An Artist of the Floating World」は「浮世の画家」となったらしい。浮世は浮世であって、浮世絵じゃないんだが・・・
0571209130An Artist of the Floating World
Kazuo Ishiguro
Faber & Faber 2001-04-09

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開口一番、すいません、かなり辛い読書でありました。確信したのは、Ishiguro氏は日本語はかなりわかるんだろうな、ということ。今時の言葉や日常の崩れ切った話し言葉はさておき、体裁の整ったものであれば、かなりいけるはず。それと、これはどこかで読んだ気がするが、小津安二郎の映画をよく見ていたらしいが、なるほど、だ。が、英語の先に日本語がチラチラと浮かび、悪く云えば、日本語を英訳したのかと錯覚するような英語に、私には思えた。が、そこはイギリス人故、少々デフォルメがかかっている気がして、だからこそ日本人故、違和感があるんだな。過剰なまでに、上下関係や親子関係というヒエラルキーを尊重したまどろっこしい話し方、上の人に対する遠まわしな、でも遠慮し過ぎな話し方、ちょっとジメっとし過ぎる。それらが読んでいてどうも気になり、それがぬぐえないまま、苦しいが読了した・・・という次第。そして、とっても不思議なんだが、登場人物はみな所謂日本人の名前(YamadaとかSuzukiとか)で登場するのに、どうも途中で誰が誰だかわからなくなる。さして沢山の人がでてくるわけではないんだが・・・

話しは戦後すぐ。画家であった主人公は、芸術性を重んじる画家から、戦意高揚の画風に転換するのだが、終戦を迎え価値観が180度転換し、若い世代は新しい意識を持つようになる。老齢の画家は、妻と長男を失くし、娘二人が残っている。この本は彼が語り手となり一人称で進む話し。そこに、「信用できない語り手」手法がとられているため、彼の記憶の曖昧さ、悪く云えば、自身の誤魔化しがあるため、本当のところはよくわからない。彼を毛嫌いする同僚、父の意見に遠慮がちに賛同しかねている娘たち、無意識下の罪悪感などは、読む側で想像を膨らますしかない。彼の画家としての影響力も実際のところは語られているよりも低いのだろうが、自意識が許さない。知り合いの中に、戦中の戦意高揚に加担したものが戦後糾弾された事実を知り、次女のお見合いが、同様の経歴で破談になることを恐れ、過剰に(ある意味滑稽なほど)取り繕う様子もある。しかし、主人公は糾弾されている節もなく、ある意味悠々自適な暮らしにみえるので、おそらく自尊心故に隠蔽している主人公がそこにいるんだろうと想像する。

時代の変化の中で、自身の半生を自分でどう正当化するか?主人公の姿勢は痛々しく悲しいが、我が身に置き換えれば、それは理解もできる。舞台は違うが、確かに「日の名残」と底辺では共通するものがある。

イシグロ氏の中の日本が、よくわからないのだが、どうも英国育ちのという先入観が邪魔をして、重箱を隅をつつくような読み方になってしまった。彼の描く戦後の日本は、彼の主観的な世界にだけ存在する独自のものだと思えばいいんだけど・・・

映画:ショーシャンクの空に

平日夜21:00からにも関わらず、ボーっとTVをつけていたら、ボーっとそのまま最後まで見てしまった。
1994年公開、同年公開されたのは、『フォレスト・ガンプ』や『パルプ・フィクション』や『スピード』、アメリカのアカデミー賞は『フォレストガンプ』に総なめされた。原作はスティーブン・キングの中編小説『刑務所のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』。私がタイトルを知っているくらいなので、有名な映画だが、キング先生の原作は面白そうだな。

B003EVW5FUショーシャンクの空に [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2010-04-21

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妻とその愛人を射殺したという無実の罪を着せられ、終身刑の判決が下り、ショーシャンク刑務所に収監された元エリート銀行員アンディの刑務所での20年間の物語。とにかく最後まで眠らずに見続けることができたということは、”見せてくれる”映画ではあった。アカデミー賞と云われると、そこまでのパンチはないかもしれない。安易に『フォレスト・ガンプ』と比較してしまうと、やっぱりフォレスト・ガンプの方が上かもしれない、と私は思う。

時代は1947年だから、現在よりも刑務所の環境は劣悪で、犯罪に対する人々の意識も違っていたと思う。看守や所長は典型的な悪人として描かれるし、刑務所内は、イジメも暴力も脅しも収賄も何でもある。そしてそんな環境であっても友達ができる。”調達屋”のレッド。このあたりもある、ある、だな。元銀行員のアンディがハドリー主任刑務官の遺産相続問題を知り、その節税対策を提案したことから、アンディは刑務所内の図書館で、老囚人ブルックスの助手となるが、目的は所長や刑務官達の税務処理や資産運用をアンディに行わせるため。管理者たちにとってなくてはならない存在となったアンディの存在感は増していき、やがて所長の脱税の手助けをすることになる。

1954年、図書館で一緒に働いていたブルックスに仮釈放の許可が下りるが、50年服役した老人が外の世界で暮らして行けるわけもなく、間もなくブルックは首を吊って自殺をする。何十年と刑務所で暮らし自由を求めることを諦め、そして塀の中という環境に依存して生きることしかできなくなる、というレッドに、アンディは”音楽と希望は誰にも奪えないものだ”と反論するが、レッドはそんなものは塀の中では不要なもの、むしろそれがあるがために、希望が消えた時に辛さを説く。仮出所の希望を何度も挫かれた彼の言葉はもっともだ。さらに新たに入所したコソ泥のトミーが、アンディに濡れ衣を着せた真犯人を知っていると云うが、脱税の秘密をすべて知っている彼を悪徳所長が手助けすることもなく、邪魔なトミーを所長が殺し、ついにアンディは決断する。。。

最後はHappy Endなのはさすがアメリカで、あ~~ここでこの人は死ぬんだな、が予想通りにすすみ、悪者はみな報いを受け、アンディとその友達のレッドは、メキシコへの逃亡に成功する。筋だけ追っていくと、予想どおりの展開だが、この映画はたぶんディテールが面白いのと、伏線を張りながらそれを気持ちよく回収してくれるところがいいのかもしれない。くだらない私事だが、最近見ているドラマはお気楽にみられるNHK朝ドラとか、何だか今一つの大河ドラマくらいしかなかったから、アンディを演じたティム・ロビンスにレッドを演じたモーガン・フリーマンの演技が上手くてそっちに感動してしまった。

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

再びAll Reviewsにそそのかされて購入してしまった。
カチンの森という言葉を何となく記憶しているのは、きっとアンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」という映画の記憶だと思う(但し見ていない)。本を開く前に、さらっとネットで勉強してみたが、映画も含めこの事件に関しての記事は相当ヒットした。そして、俄かには信じ難い事件にちょっと絶句した。

4622075393カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺
ヴィクトル・ザスラフスキー 根岸 隆夫
みすず書房 2010-07-10

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長くて恐縮だが、下記が出版元、みすず書房の紹介
1939年8月の独ソ不可侵条約、それにもとづく両国の相次ぐポーランド侵攻、こうして第二次大戦ははじまった。
1940年春、ソ連西部、スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連秘密警察は約4,400人のポーランド人捕虜将校を銃殺した。犠牲者数は、同時期に他の収容所などで殺されたポーランド人と合わせて22,000人以上。職業軍人だけでなく、医師、大学教授、裁判官、新聞記者、司祭、小中学校教師など、国をリードする階層全体におよんだ。
しかしソ連は、犯人はドイツであると主張。さらに連合国もすべてソ連の隠蔽工作に加担し、冷戦下も沈黙を守りつづけた。ソ連が事実を認めたのは1990年、ゴルバチョフの時代。92年になるとスターリンの署名した銃殺命令書も閲覧可能になる。
スターリンが、ポーランドという国自体を地図から抹消しようとした理由は何か。なぜゴルバチョフは、もっとも重要な文書の公開に踏み切れなかったのか。著者は簡潔にバランスよく、独ソ不可侵条約とカチン虐殺の関係、欧米列強の対応と思惑、歴史家の責任、さらにはカチンに象徴されるソ連全体主義の根本的な問題と、ふたつの全体主義国家(ナチ・ドイツとソ連)の比較まで、最新資料を駆使しながら解析する。
日本では類書はきわめて少ないが、欧米では蓄積がある。本書はそのなかでも決定版として評価が高い。今後、20世紀ソ連の全体主義見直しのなかで、ますます重要度を増すことだろう。2008年、ハンナ・アーレント政治思想賞を受賞。


驚くことはあまりに多い。あまりに多くて、それだけで一杯で何故?について思考を巡らす余裕がないほどだ。
・無差別大量殺人 ユダヤ人の虐殺を「民族浄化」とするなら、カチン事件はポーランドの指導者階級虐殺という「階級浄化」
・戦勝国が揃いも揃って、ナチスドイツに罪をなすりつけようとした
・戦勝国の犯罪故、戦後のニュルンベルク裁判でもろくに審議されなかった
・21世紀を迎えるまで事件の真相が公に公開されなかった。あのグラスノスチ(情報公開)を断行したゴルバチョフでさえ、この件については、例外扱いだった。
等々・・・

一国のそれも超大国のトップに立つ人間の気持ちなどわからないが、それはもう普通の精神ではいられないのか?それとも不幸な時代の特異な状況が怪物のような人間を生み出すのだろうか?ヒトラーが生まれ、同時期スターリンが生まれたことは偶然ではないのか?もしくは、これは世界を舞台にしたジェノサイド故、ここまでの事件になるが、私たちの日常において、xxxさえなければとか、xxxさえいなければ、と願ってしまうことと、同じことなのか?今の時代であっても、独裁者政権というものは、存在する。それは昔も今も変わらない。ネット全盛の現代において、こいつは叩いてもよいとなった瞬間のマスコミ挙げての過剰な叩き方は、イジメと呼んでもいい。その巨大化したものが、国際問題までに発展するジェノサイドなのか?それともそれらはやっぱり違うのか?私にはよくわからない。

ドイツとソ連による秘密条約、独ソ不可侵条約は、ポーランドという国を地上から抹殺し、指導者階級を抹殺することで、二度と立ち上がれないようにするソ連と、そのおこぼれを頂戴するふりをして、さらに東に侵攻するドイツとの身勝手この上ない条約であった。どうもスターリンはヒトラーをある種認めていたという記事もあったが、ヒトラーは端から条約を破るつもりだったとしか思えない。更にチャーチル、ルーズベルトら英米諸国も憎きドイツを潰すためなら、ポーランド一国が消滅しようが、スターリンと結ぶ方が得策だった。本によれば当時の状況証拠からして、ソ連の犯罪であったことはほぼ間違いなかったはずだが、チャーチルもルーズベルトも見て見ぬふりを決め込んだ。ソ連とドイツの犯罪の擦り付けあいに、これら二大超大国が少しの正義感を示したならば、カチンの森の真相は、もっと早くにわかっていたのだろうと思う。でも一旦ついたウソをウソだと認めることは、当人たちが生きている限り困難で、しがらみから解放された新しい世代が時代を担うようになるまでは、出来なったのかもしれない。

東西冷戦を見ながら成長した私なんかは、民主主義国家だの社会主義国家だのというイデオロギーの違いも見ていたわけだが、イデオロギー論争もxxxx主義も、茶番じゃない。

歴史は勝者によって造られたもの、という云われ方はよくされる。ヒトラーの罪は罪として、でも彼は叩いてもよい人物になった。何を暴露しようが構わなかった。でもソ連時代の闇はまだまだ明らかになっていないのだろう。ゴルバチョフは旧体質にメスを入れた画期的な指導者だったというイメージが先行しているが、実際のところ彼は”ソ連”の指導者の枠を出ることはできなかったし、国内の権力闘争を収めきれなかったし、ソ連邦解体までは臨んではいなかったろう。戦後70年を経た現在、70年たったら当時を知るものはほんの少しになり、事件も戦争も風化することが懸念されているが、70年経ってようやく認めることができる闇の歴史もある。70年という時間は、そういうことなんだろう。

小さな美徳

すでに刊行されている、「わたしたちのすべての昨日」「町へゆく道」「夜の声」に、このエッセイ集が加わることによって、ナタリーア・ギンツブルグの初期作品の集大成となるらしい。第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて、彼女が書き綴ったエッセイ集。もっともよく知られている 『ある家族の会話』 に先立って執筆されたこれら作品を読了したのちには、是非このエッセイを読むべし。読むべしといったところで、本当にギンツブルグは知られていないのだろうな。それでも翻訳し刊行してくれた方々には頭が下がる。

4896425332小さな美徳
ナタリーア・ギンツブルグ 望月紀子
未知谷 2017-07-31

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【第一部】
アブルッツォの冬
破れ靴
ある友人の肖像
イギリス讃歌とイギリス哀歌
メゾン・ヴォルペ
彼と私
【第二部】
人間の子
私の仕事
沈黙
人間関係
小さな美徳


とにかく好きなギンツブルグ のエッセイは、読むのが嬉しい半面、少し怖いような複雑な気持ちで本を開いた。フィクションを読んでいるうちはいい、でもその内面を覗いてみるのは、少し怖いのだ。
夫の流刑地アブルッツォに付き添って暮らした日々のこと、夫とともに仲の良かったパヴェーゼのこと、二度目の夫との日々の会話(デフォルメと自虐が過ぎるように思うが?)、少し住んだイギリスのこと(彼女にしてはかなり辛辣で驚く)、独自の教育論、極論としては彼女の人生観そのものだった。

第二部はxx論の様相なので、比較的平常心で読んでいられるが、第一部は戦中戦後の彼女の暮らしだ。閉塞的で日常の暮らしが否定された時代が舞台だが、作品と変わらないその静かで何かを飲み込んでしゃべっているような書き方には、涙がでそうになる。夏と冬の2つしか季節がないというアブルッツォでの暮らしは貧しいものだった。本物の絶望と不安を経験した者は、小さな希望にも疑念を抱き、ありきたりの日常にさえ浸ることができない。それでも、夫を失った後に振り返るそこでの暮らしは、生涯最良の時であったという。

自分の仕事に信念を持つこと。「小さな美徳」の章で彼女は”天職”という言葉を盛んに使っている。じっとうずくまり、すべてを飲み込んで過ごした日々の果てに、でも彼女は”書くこと”だけは愚直に真摯に続け、それが天職だと言い切る。書くことが生きることだった彼女の人生は、結果作品を読むことしか出来ない読者に読書以上のものを投げかけているようだ。今更、私が居住まいを正せるものでもないのだろうが、時にはギンツブルグの存在を思い出すくらいのことはしなくては、と思う。

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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