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The Book Thieves

FC2からアマゾンリンクを貼れる機能がなくなって以来、g-toolsを使っていたら、そちらもサービスを停止されてしまい、仕方なくamazletを使い始めたものの、どうもヒット率が低いのはどうしてだろう?今回もヒットしてくれなかったので、アフィリエイトはどうでもいいがこんな画像になってしまった。しかも見た目が悪すぎる。

気を取り直して・・・この本を知ったのは邦訳された「ナチ 本の略奪」からだけど、(高いので)英語にしてみたが、作者のAnders Rydellはスウェーデンのジャーナリストだそう。読みにくくはなかったけれど、固有名詞が多すぎてそれがドイツ語が多いときているのでくじけるし、英語が硬いんだよね。

     

ナチ 本の略奪
ナチ 本の略奪
posted with amazlet at 19.08.30
アンデシュ リデル
国書刊行会 (2019-07-13)
売り上げランキング: 118,552

ナチが略奪したものは多々あれど、美術品や宝石、金塊など金目のものばかり注目を浴びているが、書物の略奪にフォーカスしているのがこの本。焚書や発禁処分の話は知っているけれど、ここに描かれるのは野蛮なナチではなく、知の征服までを目論んだナチの戦略と、戦後、それらの略奪された途轍もない量の本を、元の持ち主に返そうという活動の話。焚書はいわば大衆に向けたデモンストレーションであって、むしろナチの本当の目的は反ナチス(ユダヤ人のみならず、フリーメイソン、共産主義、キリスト教等々)、つまり敵の情報収集、ひいてはそれらの思想や歴史を統制し、ナチの世界観を正当化し、世界史さえ書き換えるという壮大なものであった。ヒトラーにせよ、ナチスの幹部たちも、書物というのは文化であり、思想であることは、重々承知していたはずだが、怖いのは、人間の記憶さえ管理するということ。それは過去の歴史だけではなく、未来にわたって人間の記憶を管理することだ。

ナチが侵攻した国々、オーストリア、ポーランド等の東欧諸国、フランス、イタリア、果てはギリシャまで、物理的な軍事力による侵攻の後、そこの図書館、個人蔵書までを略奪していくわけだが、今回新たに知ったナチ幹部、全国指導者ローゼンベルク特捜隊(ERR) アルフレート・ローゼンベルクが主にその任務についていた。このローゼンベルクなる人物は、ヒムラーやゲッペルスほど有名ではないので、ググッとみると、確かに組織図上のタイトルと実権を比べると、実権がはるかに弱い人物で、所謂政治党争も下手で、出世できないタイプの人間であったようだ。ヒムラーとローゼンベルクの略奪本をめぐる ナチの内部争いも興味深く、同じナチでもアーリア至上主義と、反ユダヤ主義という隔絶があったらしい。ローゼンベルクは反ユダヤの立場であったが、ナチは最終的には、アーリア至上主義なので、同じ侵略でも、フランスやオランダ、北欧の国々と、東欧諸国とはことなってくる。東欧諸国=スラブは絶滅されるべきものであって、ポーランド侵攻においては、ポーランドそのものを地上から無くすことが究極の目的になる。アルフレート デーブリーンの「ポーランド旅行」を思い出した。

戦後、ナチが崩壊したとはいえ、ヨーロッパ各地から略奪された本の返還はたやすくはいかなかった。それはその膨大なる量のせいもあるが、戦勝国といわれる国、特にソ連がナチの資産を新たに略奪することになったからだ。これもソ連が崩壊する1989年以降は情報も徐々に公開され始めたが、今でも世界各地に散らばったままになっている大量の本が存在している。蔵書票Ex librisがある本はともかく、ほとんどの本には、持ち主に関する情報はなく、実際に多くの略奪本は国同士の取り決めや話し合いで交換されたり、売り買いされており、個人の蔵書にいたってはわずかな人々のボランティア活動が細々と続いている。

こわい話・気味のわるい話〈第3輯〉

この沖積舎の版は復刻版なんでしょうか?

壁画の中の顔 (こわい話気味のわるい話)

沖積舎
売り上げランキング: 1,544,702

調べ切れていないのだが、私が入手したのは、今はなき牧神社が1976年に発行した版でこちらの一番右側の第3巻。サイズは文庫より一回り大きい位で、ケースに入ったハードカバーの本。なかなか洒落た装丁。3冊並ぶと更にいい。アマゾンではもうこの第3巻は見つけられなかった。アマゾンにない本を持っていると、やったあ!という気分になる(笑)。

こわい話

平井呈一 編・訳というアンソロジーで、たぶんこの本を買ったのは、この中の何かが読みたかったんだろうけれど、それがどれだか何故だかは最後まで思い出せなかった。そもそも平井呈一は名前は存じ上げているが、今まであまり登場してこなかった。怪奇小説は敢えて選ぶほど得意ではない。ならどうして買ったんだろ?、この本。どの作家も初めて聞く(と思われる)名ばかり。

アーノルド・スミス 「壁画の中の顔」 
アーサー・キラ・クーチ 「一対の手」 
ジェイコブズ 「徴税所」 
シンシア・アスキス 「角店」 
ジェイムズ・レイヴァー 「誰が呼んだ?」 
ジョン・メトカーフ 「二人提督」 
R・ヒュー・ベンソン 「シャーロットの鏡」 
A・J・アラン 「ジャーミン街奇譚」 
アメリア・B・エドワーズ 「幽霊駅馬車」 
M・E・W・フリーマン 「南西の部屋」


怪奇小説という字面は馴染みがないとドロドロとした幽霊ものなんかを想像してしまうが、平井呈一くらいになると、怖いくらいではアンソロジーには採用してもらえない。所謂、怖いものは実際にない。気味が悪いというのも、科学的にはありえないという意味での気味悪さで、むしろ所々クスっと笑える人間の可笑しささえ含んでいる。玄人が選んだ奥の深い?幅の広い?奇想譚だった。

平井呈一は翻訳も多く手がけたが、今時の翻訳者はこういう風には絶対に訳さないだろうな、というよい意味での古臭さもよかった。
”この道さ行きやんすと、十文字に出るだで、・・・・・・・・ 牧師館の前へ出るがんす・・・・・”
”がんす”って聞いたのは何十年ぶりだろう。夏目漱石が I love you を「月がきれいですね」と和訳したという話は有名だが、昔の文豪たちの翻訳は、日本語として不自然であればおおいにアレンジしていたところが私も好きだ。翻訳は、翻訳された時点で、別の作品になるんだからね。

巨匠とマルガリータ

腰をすえて600ページに挑んでみたが、拍子抜けするくらい楽に読めてしまい驚いた。色々なバージョンがあるが、私は一冊ですむ河出のバージョン。ブルガーコフは先に「犬の心臓」を読んでいたが、ずいぶんと前のことだったので、彼の作風は思い出せない。ロシアと”20世紀最高のロシア語文学”という評、発禁本という三大名誉を引っさげているのに、笑いの要素が満載で、シュールというか荒唐無稽で、読む前の思い込みとのギャップがすごかった。それが一番の感想(笑)。

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)
ミハイル・A・ブルガーコフ
河出書房新社
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2部構成。第一部が種まき、第二部でバラバラのエピソードを回収という構成。登場人物が多い第一部で混乱する人が多いようだが、私は結果的には一部はかなり面白く読んだ。

スターリン時代の春の宵から始まるこの物語は、のっけから神(イエス)の存在論議があり、その存在を否定する文芸綜合誌編集長ベルリオーズ(こいつは体制派)が電車ではねられ、首が切断されるというショッキングなシーン。次は突然時代を遡り、ローマ帝国のユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトゥスがイエスをゴルゴダの丘へ送ったエピソードが入る。その後は、悪魔ヴォランド一味が不可思議な魔力を発揮し、次々とモスクワ中を恐怖に陥れていく。ヴォランドが黒魔術ショーを行った劇場の関係者や、勝手に居座った死んだベルリオーズのアパートの関係者らが、殺されてり、気が狂って精神病院送りになったり・・・・ そしてベルリオーズの事故を目撃して気が触れ、精神病院に収容されたイワンの隣には、巨匠だと名乗る茫然自失になった作家がいた。彼はイエスをゴルゴダの丘へ送ったポンティウス・ピラトゥスを主人公にした小説を書いたが、文壇で叩かれ失意の果てに原稿をすべて燃やしてしまったという。ここまではいい。

第二部は、巨匠の愛人マルガリータが悪魔に魂を売ってまで、恋人を助け出す話をメインに、相変わらず奇想天外、荒唐無稽な悪魔一味が大暴れし、モスクワ中を混乱に陥れる話なのだが、盛り上がらなければならない第二部でちょっとダレた。マルガリータが悪魔の弟子になるくだり(クリームを塗りたくると、突然若返ったり、悪魔の舞踏会のシーン等々)は、ちょっと滑稽すぎるし、結局巨匠もマルガリータも救われるわけだが、そこには何でも出来ちゃう悪魔の魔術のおかげであり、彼らたちが何かをするわけではなく、魔術は所謂、チチンプイプイの魔法なんだな。無実のイエスを処刑したポンティウス・ピラトゥスが苦悩する話しが私は好きだったのだが、彼を救うのもチチンプイプイだった。

ブルガーコフは生前はスターリン時代の厳しい検閲で弾圧され、自分の作品は陽の目を見ないものも多かった。この作品にせよ、「犬の心臓」にせよ、それは明らかにスターリン批判ではあるのだが、悲痛な批判というより皮肉(笑いも込めて)以上の凄みが感じられなかったのは、私の未熟さ故か?? ブルガーコフの作家人生は彼が生きた時代には花開くことはなかったが、彼自身はスターリンとは知己の間柄で手紙を書ける位の立場ではあったらしい。不遇の人生を送ったとはいえ、劇作家という仕事につくことはできていた、ただ自分が書きたいものは決して認めてはもらえなかった。彼は体制を憎んだというより、ただ自由が欲しかったのか?という気がしてくるが、それが、悪魔という形を借りて自由奔放な世界を描いたのが「巨匠とマルガリータ」だったというのは、甘い見方だろうか?(だろうな・・・) 

よくよく考えると、この本、神と悪魔の戦い、じゃなくて、神を助けたのは悪魔だった。

最後に見たパリ

吉田健一氏が「書架記」で、「パリに就て今までに書かれた無数の本の中での白眉」と褒め称えた本を、娘の暁子さんが翻訳。Elliot Paulはアメリカ人ジャーナリストとあるが、フリーランス記者で文芸雑誌編集者で、第一次大戦に従軍した際にヨーロッパへ渡り、その後パリに住み着いた。ナチスによるパリ陥落前にアメリカに戻るまでの約20年間過ごしたパリのユシェット通りというセーヌ左岸の庶民的な一角を中心として、そこで暮らす人々を描いた本だ。

最後に見たパリ
最後に見たパリ
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エリオット・ポール
河出書房新社
売り上げランキング: 450,810

登場人物が多くて、正直誰が誰だったか途中でわからなくなるのだが、職業も年齢も思想も国籍も何もかもが種種雑多な人々が次から次へと登場してくる。ここには、憧れの都パリの姿はない(だから、そんなロマンチックなものを期待してはいけない)。古きよき時代の庶民の日常であることは間違いないが、何が秀逸かというと、センチメンタリズムを排除した彼の文章なのだと思う。

第一部 「戦後の二十年代」
第二部 「戦前の三十年代」
第三部 「一国家の死」

正直云えば、第一部のあたりではどこかピンとこないものがあった。観光客や金持ちのいる場所ならいざ知らず、第一大戦後のこの時代のこの庶民的な通りは、真冬でさえろくな暖房器具はなく、薪さえ高価なので、庶民はただ寒さに耐えるしかなく、猫の毛皮で作ったミトンが唯一暖をとる手段であったりする。東欧から逃れてきたもの、ユダヤ人、無神論者、カトリック信者、政治思想も右から左まで様々だし、どの人も癖があり、感じのいい人ばかりでもない。でもそれはそれとして折り合って暮らしている。それは皆仲良くというのとは少々違い、適度な距離感を保ち、干渉せずに折り合っているのだ。決してほのぼのとした時代もないのだが、第二部になり、周辺諸国がキナ臭くなると、一転重苦しい空気が立ち込め、今までの淡々と描写されていた20年代が平和な時代であったことに気づく。

イタリアはにファシスト党政権下にあり、ドイツではナチスの台頭が始まり、スペインはフランコによる反乱から内戦へと至る過程、祖国フランス政府は無策で、イギリスは不干渉という名の傍観を決め込む。そして、第三部に至っては、庶民の暮らしは崩壊し、登場人物が一人また一人と亡くなっていく、まさに戦時中体制となる。これらを極めて冷静なタッチで書き続けていることが、この本のすべてだ。ことさら危機や不幸を煽ることもしないのだが、余計なフィルターをかけられていない分、読んでいる者は苦しくなってくる。

ユシェット通りの住民は、限られた行動範囲しか持たない人人の常として 大部分が視野が狭く自己中心的で、自分達を二つに分けている対立が 世界中に広がっていて、互いに死闘を繰り広げることによって世界を引き 裂こうとしている二つの相容れないイデオロギーを代表していることには気づいていなかった。

普通の人が、善も悪も、弱さも強さも含めて、普通に暮らそうと戦うこと。エリオット・ポールの一番の友、新進女優となった若きイアサントの悲痛な手紙でプツリと終わらせたのが、彼の悲しみを表しているんだろう。終始一貫、彼のセンチメンタリズムは隠されているだけに辛いエンディングだ。

アナーキストの銀行家

ペソアの英語版「The Education of the Stoic」に手を出したとき、彼の邦訳はもう金輪際読めないと思っていたら、新刊が出た。驚いた。が、よくよく考えてみれば、彼がトランクに残した膨大な遺稿はまだすべて整理されているわけじゃないらしいので、希望はあるってことに気づいた。

アナーキストの銀行家;フェルナンド・ペソア短編集
フェルナンド・ペソア
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短篇集なのだが、本当に短篇集だったので、更に驚いた。
独創的な晩餐
忘却の街道
たいしたポルトガル人
夫たち
手紙

アナーキストの銀行家


ペソアがはじめてではない人は少なからず驚いたと思う。だって、ちゃんとストーリーがあるじゃない。こういっては何だが、形を成している短篇だった。しかもちょっとシニカルで時に軽妙で、軽妙なんて形容詞をペソアの本に使うとは思ってもいなかった。しいて言えば、「忘却の街道」がペソアらしさを感じる一作。いや、ペソアらしさというのは、私が勝手に期待しているペソアだな。

と書いてしまうと、面白くなかったのかと思われそうだが、決してそんなことはない。が、一般的にいえば、佳作の域をでない。そもそもこの短篇は彼にとっての完成された作品ではなく、習作だったのかと、そんな気もするが・・・ ペソアを初めて読む人がこれを読んだら、その後に「不安の書」や彼の詩集をを読んで、どう思うだろう?そこで挫折されても困る。などと、余計な心配をしてみたが、ネットでググッてもペソアの「アナーキストの銀行家」の記事が余りに少なくて、最後はそちらにがっかりした。

「アナーキストの銀行家」は映画化されたらしい。二人の会話だけのこの短篇からどんな映画が生まれたのか、生み出せることそれ自体が凄い。私にはとても想像できない。
https://www.youtube.com/watch?v=wkBl4j063Xk

映画:ミクロの決死圏

「ミクロの決死圏」を見るのは初めてではないけれど、何年ぶりのことだろう?中学生か高校生以来?

ミクロの決死圏 [AmazonDVDコレクション]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2018-03-16)
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1966年のアメリカ映画。潜航艇とその乗組員もろともミクロ化して、人間の体内に送り込み、脳を治療するという、当時としても現代であっても斬新なプロット。それは忘れることはないのだが、久しぶりに見たからか、すっかりイイ大人になってしまったからか、ええっという驚きがたくさんあった。

その1:脳の治療が必要なのは、ロシアなのか、とにかく東側諸国から亡命してきた科学者で、このミクロ化するという画期的な発明の中でいまだ問題となっている60分限定というネックを解決する技術を引っさげてのアメリカ亡命であった。その人物が命を狙われ、瀕死の重態であるというのが、そもそもも設定で、これはすっかり忘れていた(もしくは、子供にはどーでもいいことだったんだろう)。1966年の映画だから、東西冷戦真っ只中。映画といえども何とも生々しい話で、そのオペを行う場所も、軍の施設内、医療チーム自体が軍内部の組織。

その2:唯一の女性で乗組員の一員になる女性は、なんとラクエル・ウェルチだった。これも忘れていたのか、子供にはどーでもいいことだったのか?ラクエル・ウェルチといえば「20世紀最高のグラマー」と称された女優だが、彼女が女性医師?と思ったら、そこはエンタテイメントの世界で、ちゃんとそのグラマラスさを強調させていた。船内の衣装はピタピタスーツで、抗体に攻撃されるというアクシデントに見舞われたときも、これって一種のファンサービスシーンともとれる。

その3:これ、原題は「FANTASTIC VOYAGE」だそうな・・・ ヘッ!?って思ったのは私だけか?そもそもFantasticな作品なのか?そう思うと、「ミクロの決死圏」という邦題は上手いなあ。上手いがそこにずっとだまされ続けていた感もある。とにかく今回一番驚いたのは、エンタテイメント性の高さ。5人の船員のキャラ設定もいかにもだし、体内でのアクシデントも作為的(悪い意味ではないが)この上ない。起きてほしいところで問題が発生し、解決してほしい結果に解決する。要はベタベタなアメリカ映画なのだ。

とはいえ、人間の体内のセットをあんなにキレイに映像化してもらえると、やっぱりわあ~っとなる。下手に科学も医学も知らない私なんかは、ここは小宇宙だから、これもスペースファンタジーじゃん、と納得してみた。ちょっと古さを感じるチープさがかえって新鮮だったりするのだ。きっと科学的には突っ込みどころ満載なのだが、それをいったらお仕舞いよ。

黄泥街

中国の本をもっと読んでみようかと思わせてくれた作家、残雪(なんと発音するのかいまだ知らず・・・)。中国作家は三人目だと思うが、イデオロギーやら政治的な側面から中国に偏見を持とうものなら勿体無い。「愉楽」の閻連科といい、莫言 といい、ぶっ飛び具合は、他国の追随を許さないほどのぶっとび。

黄泥街 (白水Uブックス)
残雪
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黄泥街は狭く長い一本の通りだ。両側には様々な格好の小さな家がひしめき、黄ばんだ灰色の空からはいつも真っ黒な灰が降っている。灰と泥に覆われた街には人々が捨てたゴミの山がそこらじゅうにあり、店の果物は腐り、動物はやたらに気が狂う。この汚物に塗れ、時間の止まったような混沌の街で、ある男が夢の中で発した「王子光」という言葉が、すべての始まりだった。その正体をめぐって議論百出、様々な噂が流れるなか、ついに「王子光」がやって来ると、街は大雨と洪水に襲われ、奇怪な出来事が頻発する。あらゆるものが腐り、溶解し、崩れていく世界の滅びの物語を、言葉の奔流のような圧倒的な文体で語った、現代中国文学を代表する作家、残雪(ツァンシュエ)の第一長篇にして世界文学の最前線。

おそらく背景にあるのは文化大革命なのだろう。はじめは「現実主義」の手法で書いていたが、途中で限界を感じ、現在見られるような形に改めた、とあとがきにあるが、その現実主義の手法を捨てて描いたこの奇想天外さは、もはやみんなわからない。わからないけれど強烈な凄みだけで読ませてくれる。黄泥街というかつてあったらしい灰と泥と汚物のまみれた街とそこに住む人々は全く現実的ではないくせに、確固として存在しているのだと思わせる。

人々はとにかく喋る。のべつまくなしに喋る。3日も4日もぶっ続けに喋る。が、会話の形式をとっていながら、それは会話ではなく、コミュニケーションとしての言葉ではない。誰も本当のことはなにもわからず、デマと噂と、受け売りを誰もがまくし立てる。喋るほどに黄泥街は混沌とし、腐敗が加速し、すべては溶け出し、崩壊へ向かって進んでいく。

残雪の父親は文化大革命により迫害を受け、彼女は父が収監された監獄近くの小屋で一人暮らしを強いられたという。1年を費やしたというこの処女作「黄泥街」の根幹にはその事実があるとは思うのだが、微かにでも反体制的な匂いがあるのではと期待して、探して読み続けても、そこにあったのは、蛆虫やムカデや糞尿の臭いばかりだった。徹頭徹尾、残雪はわからなさを貫いている。文学というものが言葉であるなら、それがわからないことから始まるのが残雪の世界なのだろう。

あとがきとは別に訳者近藤直子氏の「わからないこと」と題する短い論文がある。締めくくりはこれがいい。
すべての始まりであると同時にすべての終わりでもあり、すべての終わりであると同時にすべての始まりでもある場所。他者と一体であることのおぞましさが快楽に変わり、その快楽がおぞましさに変わる場所。わかろうとする狂気がわからないことへの絶望に変わり、わからないことへの絶望がわかろうとする狂気に変わる場所。語りえぬことを、語りえぬがゆえに語ろうとする「気ちがいのたわごと」が、文学が、そこからはじまるのだとすれば、残雪の文学はすでにはじまっている

Appendix

プロフィール

Green

Author:Green
夜な夜な本読む・・・日本語は海外文学ばっかり。英語はフィクションばっかり。喰わず嫌いでどこまでいけるのか?

流行りモノとか、人気モノとかすっかりどうでもよくなり、本と散歩とあとはぼぉ~~っとすることだけが今の楽しみ(それでいいのか?)

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